四万十川でバーベキュー

突然電話が鳴った!
小走りで病院へ行く。
「余命3ヶ月!」 脳天をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
この日から、すべてのことが止まり、命をかけた戦いがはじまった。

 一寸先は闇! 神も仏もあるものか、世の中、何がおきても不思議ではない。 突然の出来事に家族全員が驚いた。 私は、ブランドのバッグや衣料品を並行輸入して、自主開催のオークションで売っていた。叩き売りのオークション会場は笑いが満ち溢れ、お客さんは拍手喝さい。高くなりすぎた商品は値下がりする変なオークション。それが、新聞テレビなどのマスコミに大きく取り上げられ、合計視聴率で述べ四千万人の人達が見た。店は大繁盛で行列の出来るブランド店は、大阪の心斎橋と卸の街、船場センタービルに構えていた。 「大阪ど根性商人東京へ殴りこみ」と、物騒な肩書きで全国ネットの一時間ドキュメント番組に大きく取り上げられ、その勢いでそのまま東京は都営浅草線東日本橋駅のすぐそばに、五十三坪のオークション会場も設けた。ここも大繁盛で連日お客が殺到する。私は全国的有名人になり、地方から商売の相談事や、人生の相談事に訪れる人達が絶えない日々が続き、心の中は、タレント気分だった。ベルサーチのスーツとアルマーニのスーツを交互に着て、手にはカルチェのアタッシュケース、腕時計はもちろん金のローレクス。ヘアースタイルは短めのパンチパーマのオールバック、口ひげにあごひげ、知らない者はいない船場の風雲児として、同業者の注目の的になっていた。

「あの人、テレビで見たことある」 ささやき漏れる声は常に耳に届いていた。飲みに行けば大もてにもてて我が世の春とばかりに大金をふところに遊びほうけていた。 うぬぼれと有頂天、これほど怖いものはない。 傲慢になり気が大きくなる。人の話などまったく聞かない。溢れるお金で勧められるがままに買った土地や株券は、奈落の一途を辿り追証がかかって借金地獄、一転して借金の洪水に溺れかけた救いようのないバカ。そして、神や仏に頼ろうとする愚か者だった。そんな日々が続いていたある日の夜のこと、天罰が下ったかのように病院からの呼び出しの電話が掛かってきたのだ。

  ギターの音色が聞こえる。私譲りのサウンドだ。 最初に弾いたのは、スタンドバイミー。今日も、受験勉強が終わって、自分の時間を楽しんでいる。京大受験に失敗して、今は、予備校に通っている。東大、京大の合格率が高い進学校を出たが、不況のせいもあって、史上まれに見る競争率に破れた。趣味は、音楽、映画、お笑い番組やK1などの格闘技。やさしさの中にも男らしさを秘めた、ナイスガイ。身長百七十七センチ、体重五十五キロ、スマートでハンサムボーイ。地元の女子高では、人気者の有名人。青春ど真ん中、その名は「よしゆき」まだ十九歳、私の次男のことだ。  

 うだるような暑さの中、原爆のニュースが流れる時節が、また来た。 そうだ、日本のお盆休みだ。東京の大学に通っている長男一幸も帰省している。久しぶりに、実家に従兄弟の子供たちが集まって、おばあちゃんに元気な姿を見せている。おばあちゃんは、孫たちに自分の手料理を食べさすのが大の楽しみ。はっきりいって、さほどおいしくはないが、みんなおいしい、おいしいとお世辞を言って食べてくれるからおばあちゃんも張り切って、つい作りすぎてしまう。おなかいっぱいになった後はみんなで記念写真。よしゆきは、笑顔でおばあちゃんの横で写っている。 風邪引きがなかなか治らなかった善幸(よしゆき)は、数日前から風邪薬を飲んでいたが、一向に良くなる気配がなかった。
 

「風邪薬ばかり飲んでいないで、一度病院に行きなさい」と父親らしい言葉を私がかけると、「うん」と渋々うなずくも毎日の図書館通いと、夜遅くまでの受験勉強でそんな余裕は、まったくなかった。いつものように、すぐ治るだろうと、気軽に考えていた。 そんな蒸し暑い夏の朝、突然悲鳴のような長男一幸の声が部屋中にこだました。 「どうしたその顔! 浮腫んでるじゃないかッ……お母さ〜ん」 驚いた母親も、心の中でおかしいと胸騒ぎを感じながら、 「早く、病院に行きなさいッ」と、うろたえながら次男よしゆきをせきたてた。 当人も鏡を見て驚いている。 顔を撫でたり首筋をさすったりしながら、しきりに鏡を覗いている。 『なんでだろう』 チョット意外な、と言う表情に心配と不安が入り混じった眼つきだった。 私は以前、働きすぎから、突発性心筋症で入院を長きに渡ってしたことがある。その心臓が、異様な胸騒ぎを起こし手でつかまれたように締め上げられた感覚が全身に伝わった。なぜか身体も震えている。恐怖心が言葉を奪ってしまったかのように、何も言えないでいた。ただ、何かおかしいという直感だけは脳髄を突き上げていた。 すぐに保険証をもって個人病院へ行って帰ってきたよしゆきは、沈痛な表情で口先をもごもご言わせた。 「C大学付属病院の紹介状を書いてもらった。大きな病院で検査しなさいって言われた」 がっかりと首をうなだれている。 「エッ、紹介状!」 テレビを見ていた私は、視線をニュース番組から九十度切り替えて、よしゆきのほうをへ顔を向けた。 いったい何の病気なのか? ただの風邪引きではないのか? つのる不安がさらに一気に押し寄せてきた。 まさか! これから襲ってくる運命の逆流が、我が子とわが身に起きようとは、誰か知ろうはずもなかった。  数日してまた浮腫んだ。予約日外だったが、あわてて大学病院を訪ねる。  仕事から帰ってきた私が訊ねた。 「どうだった?」 「すぐ入院しろって」  私の顔がゆがむのがわかった。嫌な予感が当たったように、胃液が込み上げてきて口の中が苦い。  生唾をごくりと飲み込んで私は恐る恐る聞いてみた。

「! どれくらい?」 「二ヶ月!」 やはり、ただの風邪ではなさそうだ。いったい何がどうしたのだろう、どうして二ヶ月も入院しなければならないのか、不安と恐怖が脳裏を横切る。なぜならよしゆきは、病気らしい病気はしたことがない。どちらかというと健康なほうだ。食欲もたっぷりあり好き嫌いなどない。受験生にありがちな青白い顔をしたひ弱な感じなど微塵もなくバスケットボールや野球などスポーツもとても得意で、物まねをしては人を笑わし、毎朝筋トレをし、腹筋もかかさない陽気で元気で明るい良い子だ。そんなよしゆきが、なぜこんな大事な時期に、一流大学に入るために小学校から中学校高校とがんばってきたのに、そして憧れの京都大学の門がそこに見えているこの年に、考えても悔やんでみても腹立ちと悔しさが湧きあがるばかり。 入院が決まり六人部屋に入れられた。 連日の検査に次ぐ検査。 それだけでも患者に不安を与えてしまいそうになるほどの検査が続く日々。 『必要なのだろうか、こんな検査』 仕事が遅くまで食い込み、疲れてソファにすわっていたある夜に、突然電話が鳴った。

「もしもし、僕、一幸、お母さんが泣いてるよ! すぐ来てッ」
「どうして?」
「よくわからないんだ」
「よっしゃ、すぐ行く」
  私は、すぐに走って出かけた。 C大学付属病院は自宅マンションから数十メートル先に立派にそびえ建っている。小走りで病院へ続く階段を駆け上がりエレベーターで九階へ、到着を待っていた長男一幸のあとをついてナースステーションの前まで来たとき、若い二人の先生(医師)が現れた。ふと、お盆休みでベテランの先生はいないのか? 頼りなさそうな若い先生だった。案内されるままについていくが、徐々に緊張と不安が膨れ上がり、手のひらに汗が滲む。 ……ただ事ではない……まさか! 細長い部屋の黒い長椅子に私たちは座るように言われ、先生に向かって私、妻、長男と順番に腰をかけた。 これが先生かと思われる若い人が、X線写真を指しながら口を開いた。 「お宅のお子さんは……余命あと三ヶ月! です」 丸くかがむように聞いていた私の背中に電気が走り、椅子から数センチ飛び上がるほど衝撃を受けた。勉強以外したことないという分厚いレンズのメガネを掛けた若い先生に向かって私は、「えっ?」と、眉間に皺を寄せて、「何を言っているんだおまえわっ」と言う顔つきで睨んだ。 となりで妻と長男がすすり泣いている。先に聞かされていて信じられなかった言葉が繰り返されて再確認した思いだったのだろう。  眼球が飛び出しそうになった私の目頭からみるみるとこぼれ落ちてくる涙。 二人の若い先生をもう一度しっかり見つめなおし、興奮気味に問いただした。

「エッ! 今、何と言うたッ?」
  心臓の鼓動が急に激しくなって、飛び出しそうなくらい震えが全身をおそってきている。口元もわなわなとヒクついていた。二人の先生は、ややうつむき加減に目線を下におとしている。 催促するように私は、 「ど、どう言うことですか?」 興奮してどもりがちになっていた。血圧はおそらく過去に入院したとき以上二百は越えていただろう。 冗談を言うような場所ではない。 しかし、先生はまだ若い、誤診では? 「何かの間違いと違いますか? あの子は病気なんか殆どしたことないんですよ」 先輩格の分厚いレンズのメガネをかけた先生が、X線写真をガラス棒で指しながら、 「縦隔に悪性の腫瘍ができています。そして、肺にも転移しています。このままにしておいたら三ヶ月しか持たない」 「!」 「治療しても六ヶ月です」 「?」 本でも読むように言われた。 今度は全身が緊張のあまり硬直した。目が点になり、耳がうーんと鳴った。 「あのう、治療しても治らないって、どう言う意味ですか?」 二人の若い先生は下を向いている。追いかけるように私は、 「放射線は? 手術は?」 いづれの問にも二人の若い先生は首を横に振った。 私は益々興奮が抑えられなくなった。 そして、声が裏返った。 「なにかッ、あるやろッー」 極度の興奮状態に陥った。 妻と長男はただ呆然と肩を揺すらせて涙がボトボト床にたらしているばかり。開いた口からは疑問も質問も飛び出してこない。あまりのショックに腰が抜けたように。 意識をしっかり持って、もう一度、私は訊ねた。 「よく理解できないんですが? ちゃんと説明してくださいますか?」 精一杯感情を抑えて言った。 また、ガラス棒で胸のX線写真を指しながら、先輩格の分厚いレンズのメガネの先生が目線をあげて説明を始めた。
「ここに、縦隔があって、そこに悪性の腫瘍が出来ています。そして、肺のここと、ここに転移しているものと思われます」
  横隔膜なら知っているが縦隔は初めて聞いた。それに、腫瘍とは?

「ガンってことですか?」 恐る恐る私が問うてみた。
「はい」と、冷たい返事がはっきり返ってきた。 嗚呼、なんと言うことだろう、我が身内には、ガンになったものなど一人もいない。それなのに、やはりおかしい、それに先生が若すぎる。まるでインターンではないか、誤診だ誤診だと、おのれに言い聞かせ、私は食い下がるように先生に毒ついた。 「X線の埃がついているのじゃないですか? ちゃんと調べたんですか?」  まばたきを激しく繰り返す二人の若い先生方、私の方を向いて、 「マーカーの数値も高いですし……」 若い医師は下を向きながら答えた。 「マーカー? 何? それ? 専門用語使わないで下さい」 私は激しい口調で返答した。 他に専門的な言葉を使っていろいろと説明があり、最後に、先生 方の夏休み(お盆休み)で呼吸器内科の上の者は、今はいないとのこと。

「……やっぱり……」
  ガックリと肩を落とした私たち三人は、うつむきながら談話室に一旦腰をかけ、少しの間言葉が出なかった。しばらくして私が口を開いて、妻と長男に本人のよしゆきには悟られないように普通の態度をとるように打ち合わせをした。帰る前によしゆきの部屋をのぞこうと三人いっしょに席を立った。ため息とも吐息ともつかぬ息が漏れた。私も呼吸を整えて深呼吸をもう一度してから、『泣くまい、今は泣くまい』と、自らにも言い聞かせ、うつむいている妻と長男に眼と言葉の両方で再度言い聞かせ、長い廊下を歩いて行き、よしゆきの入っている六人部屋の病室を覗くと、受験勉強のテキストをベッドの上にいっぱい広げて、熱心に勉強をしていた。 私たちに気付いたよしゆきは、「お父さん、先生なんて言っていた?」と、訊ねてきた。 唐突だったので私は言葉に詰まって慌てたが、普段商売で鍛えた経験からオブラートに包まれた言葉が、口を突いて出てきた。 「あ、あのな、なんか胸にできたみたいやて、それで咳が出るネンて、時間かかるけど治療したら浮腫みもすぐに治るって言ってたわ」 「あ、そう」と、ニコリと笑うよしゆきの笑顔。  私たちはその場に立っているのさえつらく、苦しい。この子にこういう笑顔を見せられては、どういう言葉を発すればいいのか、次の言葉が口を突いて出てこない。つかさず母親が、「うん、治療したら、すぐ治るって言ってたわ」と、必死の作り笑顔で話す下瞼が濡れている。 「あんまり、勉強ばかりせんとゆっくりやすみ」 「僕、遅れてるから、はよ、取り戻さんとまたすべる、そうなったら、親に申し訳ないやン」 『あほ、おまえは死ぬネンで、死んでしまうネンで』   心の奥底から悪魔の叫びが、私の胸にずきんズキンと唸りをあげてくる。 本当のことなどどうして言えようか、この子は、まだ、十九歳になったばかりだ。 「オマエはガンで死ぬんだ」 そんな、むごいことを言えば、飛び降り自殺でもしかねないだろう。

「余命三ヶ月、治療をしても六ヶ月」と、死の宣告をされたのだ。 本人にどうして、告知など出来ようか? まして、親として「子供が死ぬ」と予告を受けて、これから治療しても半年あまりで死んでしまうよしゆきを、誠心誠意看病しなければならない。死んでいくのに、治らないのに、どうして! どうして? 告知など出来ようか。恐ろしくて、怖くて、神も仏も人一倍信心してきたのに、なんて残酷な、何とむごい宣告を、いじらしく微笑みを私や妻や兄に投げかけてくるこの次男よしゆきをなんとか助けたい。 しかし、どうしていいのか、とにかく認めたくなかった。我が子が死ぬなんて!  私は、すぐ個室を要求した。老人ばかりの六人部屋ではこの子が可愛そうだ。暇を潰すのに困っている入院患者の年寄りたちや見舞い客たちは、余計なことを言って聞かせていたからだ。 「若いのにどうしたん?」 「咳が出て顔が浮腫んだ!」 「ひょっとしてガンと違う?」 「まさか、若いのに」 「若い人でもガンに成るって」 とんでもない会話を聞いてもいないのに、聞こえるように親切なありがた迷惑な素人診察をして、いちいち、よしゆきに聞かせていた。中学生のとき、尊敬している人は、という欄に、「父」と答えたよしゆきは、だれのことばよりも、父親である私の言葉や、愛する母親の言葉を信じてくれたのが、何より幸いであった。 親として何とかしなければ、泣き喚きながら、なりふりかまうことなく叫ぶように私は知り合いの医師に電話をかけ、事情を説明して病状について調べてもらったが、どの医師も同じような返事だけでどうすれば治るかは誰も教えてくれない。ただ一人、悪性の腫瘍ほど、抗がん剤は効くと言っていただいた。

  でも、その響き!  「抗がん剤」という聞きなれない今まで他人事のこの薬品名が、毒薬のような響きを持って私の耳に飛び込んでくる。悪名高い抗がん剤シスプラチン。髪の毛が抜け嘔吐をもよおし全身に嫌悪感が走る悪魔の薬。何度かテレビのガン特集で見たことがあった。それを、我が子に打って同じような目にあわすことになるとは耐えられない。しかし、病院側の高名な先生が一度試した方が良いとおっしゃる 「やらないよりはやったほうが良い」ともおっしゃった。 私は、大きな不安を抱きながらも他に頼るすべもなく、渋々受けることになった。 めずらしいガンと言うことで数々の検査は、「また、検査」と、よしゆきにあきれさせるくらい続いていた。ほんとうに必要かどうか疑いたくなるくらいの検査が何日も続き患者に要らぬ不安を与えてしまうだけではないか、そんな気持ちが私とよしゆきの中で湧いてきていた。 このガンは若い世代に多くその原因も治療法も良く分からないと言う。真実の程は定かではなかったが、苦痛を帯びた検査は延々と続き、その中でも特に強烈だったのは胸から布団針くらいの長い針を入れて縦隔にできたがん細胞の一部を取り出すと言う検査だった。多くの医師たちがよしゆきの居る個室に集まり見学研修組もいるだろうと思うくらいの人たちでいっぱいになった。痛みもさほどなくすぐ済むとのこと、動脈や心臓の近くに針を刺すので外科医も立ちあってやるとのこと、「万全をきしてやりますから、ご心配なく」なのに誓約書にサインをさせられた。 ざわざわとよしゆきの個室に若い先生の卵たちと思える人達が入室してくる。私は一人の医師にうながされて外で待つように言われ廊下へ出た。長男は大学が始まったので東京へもどり、妻は仕事を続けていた。そのほうが気がまぎれると言うので、時間の自由がきく私がよしゆきのそばに毎日ついていた。 静まった廊下で私は、ジッと検査が終わるのを待っていた。どれくらいの時間が過ぎたろうか、突然よしゆきの病室のドアーが横に開いた。あの分厚いレンズのメガネの若い医師が、ピンセットに何かを挟んで廊下へ出てきた。私と眼が合った。そのまま小走りでナースステーションの方へ行こうとする。あわてながら私は分厚いレンズの若い医師に声をかけた。 「終わったンですか?」と、思わず大きな声が出てしまった。 小走りで私の方をふりむいたその医師は、「はい」と言ったので、すぐさま、「取れたンですか?」と訊ねたら、「はい」と鉄製の小皿の上にあるピンセットの先を目で指した。 どす黒い、小さな肉片がついていた。 『こいつか!』  忌々しい色をしている。賞味期限の過ぎた生レバーのようにどす黒く、なぜかそいつが憎らしくてたまらなかった。ぞろぞろと若い医師の卵のような人達がよしゆきの病室から出てきた。
  私は、担当医の先生に、「入ってよろしいか?」と聞いた。
「どうぞ」
「よしゆき、大丈夫か?」
「ものすごく痛かった、天井見たら顔がいっぱいあって、変な雰囲気で怖かった」
  相当の恐怖心が走ったらしい。大勢の医師に囲まれて、たかが胸の病気と思っている本人にとっては、言葉では言い表せないものが脳の中を駆け巡ったことだろう。想像すると痛ましく可哀想でこれからおとずれるであろう試練に耐えていけるかと不安になる。試練とは、よしゆきのことだけではない。むしろ、付き添って看病をする私たち夫婦のことでもある。 私は、全身全霊をつくして、我が子を助けたい。よしゆきを助けたいと、すでにすべての仕事を止めて看病に全力をそそぐことを心に誓い、「キセキ」を起こさなければ、と考えていた。そのために、念願かなってやっと手に入れた大阪心斎橋のお店も、新しく購入した船場本社ビルのお店も閉めてしまった。閉めてしまったというより私がいないと出来ない仕事でもあった。有名ブランド品の海外での買い付けや、売り込みに来たときの値交渉など、社長である私でないと出来ないことが多かった。いわゆるワンマン経営でもあったのだが、閉店してよしゆきの快復に全勢力を傾けるつもりで、いや、倒産覚悟で看病に当たった。もし、会社が潰れて借金が残れば、わが身の生命保険で支払うつもりで……。 すべての検査が約二週間にわたって行われた。その結果として出てきた医師たちの診断は、「やはり、間違いありません」だった。 結果確認のために長々と検査漬けにして、患者に不安を与え、看病する私たちを苦しめたのか、という思いが、ふと口をついて出そうになった。 事前に渡されていた抗がん剤を打ったあとの説明書。それを読んでからは、副作用のことで頭がいっぱいになっていた。恐怖の抗がん治療を始める日が決まった。 九月三日。 「ただ今から抗腫瘍の治療を行います」 病院側には「ガン」と言う言葉は使わないで欲しいと再三、再四、要求していた。告知をしないと言うことで、不満顔の医師もいた。特に分厚いレンズのメガネの若い医師が不満げな顔を露骨に私に向けた。 「告知しないんですね」 念を押すように確認された。 私は反論したかった。どうして告知が出来るんですか? と。 でも、よしゆきから「あまり無理を言うと病院側のサービスが悪くなる」と、意味深なことを聞かされていたので我慢することにした。 医師たちは、告知しないとどうも治療をしにくいらしい。しかし、治療をしても治らないと言ったその医師は、人の気持ちより自分の仕事がやりにくくなるのがいやだったようだ。
「告知しないんですね」と、歪んだ口元から発せられる言葉の抑揚が冷たく、冷酷な触りとして私の耳に届いた。大きなメガネの下にぶらさがる鱈子くちびるがなわなわと揺れ、顔全体に、「気に入らない」と、おでこの皺が文字なって私に訴えていた。 点滴の針が細い左腕に入っていく。 入院当初から感じていたことだが、この病院では看護婦は点滴の針を打たない。すべて、男性であろうと女性であろうと医師が行う。それは、見るに耐えかねるぐらいにヘタクソだった。特に、よしゆきについた新米担当医は、話にならないぐらいにヘタクソである。一度入れてはまた抜き、「すいません、もう一度」やっとの思いで入ったかと思えば、液が漏れて腕が風船のように腫れ上がる。我慢ならず何度か婦長に文句を言ったが、「ここは、医者を作る病院だから仕方がない」 では、患者はモルモットか!  

 左腕に刺さった針から最初の抗がん剤エトポシドが入っていく。 そのとき、刺さった針から視線を上げたよしゆきが、そばにいた私に何か言いたそうな顔をして、大きな眼を見開いた。ギョロッと大きな眼を見開いたまま、何か言おうと少し口を開いたまま私の眼を覗き込んでいる。しばし視線が空中で合ったままお互い顔を見詰め合っていた。よしゆきはまばたきをしない。よしゆきの眼がいっぱい見開かれている。 どこかおかしい? と、思った瞬間、バタッ、と手すりに頭をぶつけて倒れてしまった。
「どうしたッーよしゆきッ! どうしたッー?」
  そばにいた看護婦が、眼をひん剥いて倒れているよしゆきの状態に、うろうろおろおろと慌てている。 私は、ハッと直感的に閃いた言葉が大声になって飛び出た。
「アレルギーと違うかッ?」
  慌ててナースコールボタンを押す看護婦。何度も何度もヒステリックに押し続けている。誰も来ない。長く感じる。 眼の下にいるよしゆきは、白目を剥いて口を開けっぱなしの状態。色白のピンクがかった身体は、みるみるとむらさき色に変色していくのが見える。
『あー死んで行くー』  
  看護婦が慌てている。部屋を飛び出していこうかどうしようか、足がドアーの方へ向いたり、ベッドの方へ向いたりウロウロしているところへ、やっと、一人の看護婦が入ってきた。 先に来ていた看護婦が悲鳴のような声を発した。
「先生ッ、センセイ呼んで来てッー」
  看護婦が床を擦り付けるような音を残して駆け出して行った。 空気が慌ただしい。 よしゆきはゆすっても、声をかけても反応はない。視点の定まらない眼がカッと見開き、天井を向いて瞬きをしない。呼吸もしていない。
「どうしたっ! どうしたッ?」
  私は、泣きそうな声で呼びかけてみる。揺すってみる。しかし、応答なし。 嗚呼どうしよう? 遠くの方からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてくる。 ドアーを乱暴に開けて、一人の女医と看護婦が入ってきた。 よしゆきの姿を見るなり、
「ステロイドッ、はよ、ステロイドッ持ってきてッー」と、女医がかなぎり声をあげた。
  また一人の看護婦が廊下をナースステーションの方へ走っていく。そして戻ってくる。リレー競争のように走り回っている。乱暴にドアーが開かれた。
「ハイッこれ、先生ッ」
  女医はそれを受け取るとすぐさまその薬をよしゆきの点滴の中に素早く注入した。
「よしゆきッ、善幸ッ」と、私は必死に子供の名前を呼んでみる。  
  むらさき色に変色したよしゆきのお腹の上に涙と鼻水がこぼれ落ちた。それをふき取りながらよしゆきの身体を軽く揺すってみたが、反応がこない。 女医と看護婦と私の視線が焼き付けるようによしゆきを見つめる。 もし妻が知ったら、このまま死んでしまったら、仕事をしているほうが気がまぎれる、と毎日仕事に励んでいる妻が、帰らぬ子になってしまったことを知ってしまったら……。この鬱憤を、この苛立ちを、誰に、どこにぶつければ居ても立ってもいられない心理状況のそのとき、よしゆきが口からぶくぶく泡を吹き出してきた。私は、左手でそろっと抱き起こし、手探りでティッシュペーパーをとり、口元の噴出した泡をふき取りながら、さらに「よしゆきっ、善幸ッ」と呼び続けていた。 すると、画面が変わるようによしゆきの眼の色が、まるで逃げ去った魂が舞い戻ったがごとく、精気を帯びてきてしっかりと私の顔を捉えた。
「あー、お父さん」
  ……生き返った!……。
  もし、この女医じゃなくあの新米医師だけが駆けつけていたなら、『ぞっとする』 担当医のなかでも中堅の医師に掴みかからんばかりに興奮した手を抑えながら私は抗議した。
「慎重に治療をしてください。もうチョットでうちの子は死ぬとこだったんですよッ」
  私は、腹のそこから怒りを込めて抗議した。 「まさか、この薬で、アレルギーになるとは」 担当医は驚きの表情を向けたが、あやまりのことばも、あたまをさげることもなく、ただもごもごと口ごもるだけであった。 医師たちが甘く見ていたのは事実だと思った。抗がん剤を点滴の針で打ってすぐに部屋を出て行ったからである。治療が、日々の治療が流れ作業的に義務的にノルマをこなすような形で行われている。患者であり人間でないそんなあいまいな、人の命を軽く見ている。所詮は人の子他人の子、給料のために働いているのであり人を助けるために成った医者ではない。良い暮しがしたいから、贅沢がしたいから、高い月謝をはらって成った医者に看護婦、そんなふうに私の目には映ってきた。煮えくり返るハラワタから怒りを静めながらも(サービスや態度が悪くなるから)医療ミスがおきたってあたりまえだろう、と新聞を賑わしている治療ミスや病院内の事件が不思議ではなく起きて当然だと感じた。 治療は一時中断。 外出許可をもらって家に帰ろうとしていた。

 病室に設置してあるテレビからアナウンサーの悲鳴が聞こえてくる。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされたジェット機が体当たりを食らわしている。まるで神風特攻隊のようにぶちあたり、爆発して超高層ビルの各窓から火の塊りが噴出している。
「あぁ、なんということを」 言葉が思わず漏れ出た。
  一瞬にして大勢の人達が死んでいく。死と言うことを日夜考えていた私は、 『みずから死んでいくバカども』 『生きたくても死が早く訪れる者』 病院では、『治りたいと生きながらえている老人たち』 『いろんな形で人は死ぬ。人は死ぬんだ』 神妙かつ不思議な思いが胸の中を駆け巡っていた。

 私はより一層、よしゆきが元気な間に一時帰宅をさせて、我が家で過ごす時間を持とうと努めた。すぐに治ると思っているよしゆきは、秋から予備校へ通う服が欲しいと言うので買物に行くと言い出した。普段のよしゆきと変わらないぐらいに元気だが、以前に比べて咳がひどくなっている。もちろん咳止めは飲んではいるが、ひどい時は止まらなかった。私は心配なので、ついて行くと言うと、一人で行くと言う。十九歳の子が父親といっしょに買い物にいくのは、恥ずかしいのだろうけど私は、 「お父さんも秋モノの服がほしいねん」 よしゆきは仕方がないなぁ、とあきれ顔で私を同伴してくれることになった。 陽射しはきつく残暑厳しい真夏とほぼ変わらない暑い日であった。 よしゆきと私は、JR天王寺駅のすぐ横のファッションビルに出かけた。途中、よしゆきは何度も咳を繰り返した。咳がひどいと体力を消耗する。私は病気のせいじゃない、ほこりっぽいせいだと言った。 「空気が悪いからな、特に服屋は、目に見えないほこりいっぱいやから、お父さんも咳よう出るわ、ゴホンゴホン」うその空咳をしてみせる。  よしゆきの視線は、『お父さん芝居してる』 にやりと笑い、 「ここで、待ってて、一人のほうが選びやすいから」と、店の外で待たされた。  
  船場の商人である私が商売上のクセで値切り倒すかも知れないという、子供心の恥ずかしさがあったのだろう。
  学校で、「尊敬する人は?」の欄に、「父」と、私のことを高く評価してくれていたが、若者の店で堂々と値切られるのは、さすがにたまらないのであろう。
「何でも買いヤー、欲しいものあったらみんな買いヤー 、お金いっぱい持ってきたからー」と、私は、両手を口に当てて店の外から船場商人丸出しで応援するように声を掛けた。  
  少しはにかんだよしゆきは、 「ほんま! 予算どれくらい?」 周りの目を気にしながら首をこちらに向けて聞いて来た。 「十万円や!」と言う私の声の大きいのと額の多さにビックリしたよしゆきは 、 「服屋するノンと違うから、そんなようさんいらんわ」と、笑っている。  
  私は、すこしでも残りすくない人生を楽しませようと必死で笑顔をつくり演技する。 外で待っている私は、太った身体で店の前を右往左往するから、他の客は入りたくても入れない。口ひげとアゴひげ、度のはいったうす茶色のサングラス。そして、腹の突き出たオッサンが門番のようにうろついていたからである。 「ほこりっぽくてごめんなさい」と、咳き込むよしゆきを見て店員が頭を下げている。
「いえ、そんな、チョット病気やから」
「アー、そうなんですか、大丈夫ですか」 店の外からまた大きな声で私が、
「何、悩ンでンねン、手に持ってるのン全部買えッ」
「これも買っていい?」
  しゃれたTシャツを持ってつかつかと私のそばへよってきた。
「それなんぼヤ?」
「三千九百円」申し訳なさそうに言う。
「もっと高いええ服買いなさい」
「これでもここの店では高い方や」  
  ズボンとTシャツを袋に入れてもらい店を出た。
  Tシャツ一着分だけ私が出し、あとはコツコツと貯めた自分の小遣いで買った。
「もう欲しいモンないの?」
「うーむ、せやな小さなラジオが欲しい」
「何で?」
「病院で夜寝るとき聞きたいノンあるから」  
  本人はすぐにでも退院できると信じているのだろう。
  一瞬、胸がむらむらとして言葉が詰まった。口を横に開きつくり笑顔を向け、
「よっしゃ。それ買いに行こう」  
  二人で歩いて大型電気店の方へと向かった。よしゆきの右手の袋には、新作の秋物の洋服が入っている。いかにも嬉しそうな顔をしている。早く歩くと咳がひどくなるのでゆっくりと歩く。歩調を合わせて、笑いをさそいながら歩く。
「お父さんもこんなカッコええ店で買いもンしたいなッ」
「無理や、ウエスト合えヘンから」ニコニコしながら答える。
「若もンでも、太ってるヤツおるやろう」
「おるけど、そんなお腹はおれヘンわ」
  私のお腹を見て笑っている。
「お父さんチョットやせなアカンわ、今ウエスト何センチ?」
「うーむ、まだ九十四センチや」
「アカンやン、チョット太り過ぎやで、相撲取りと違うねンから」  
  和気あいあいと楽しいひとときを味わいながらも心の中でいつまでもこの幸せが続いて欲しいと願いつつ、曇りがちの顔に「チーズ」と言い聞かせ、笑顔を絶やすことはしなかった。

「店員さん、ラジオ売場何処や?」また私の悪い癖が出た。
「はい、こちらでございます」
「あー、おおきに、よしゆきいっぱいあるわ、どれでも好きなン買いヤ」
「うん」
「店員さん、ようさん買うからまけといてヤ、なッ」
「お父さん、店員さんビビッてるやン」恥ずかしそうに小声で言った。
「ええねン、一発かましとかなまけよれヘンから」
「横にいてはるやンか!」
「聞こえた方があと楽や、なッ店員さん」
  よしゆきは、数ある中から二つ選んでどちらにするか迷っている。
「どうした?」 そっとよしゆきの手の中を覗いて見る。
「どっちにしようか? と思って」
「どっちが高いねン?」
「こっち」
「ほなそれや、店員さんナンボにしてくれる? 消費税はまけといてヤ」  
  短期間の治療で済むと思っているよしゆきは、ラジオの入った袋と洋服の入った袋を自分で持つと言って、家の方へ歩いている。 愛称で息子に声をかけた。
「善(ヨシ)、何か食べていこうか?」
「えー、家に御飯あるしお母さん肉じゃが作ってくれたし、それ食べたいから家で食べよう」  
  親の心子知らず、本当のことは口が裂けても言えない。すこしでも美味しいもの、すこしでも良い服、ささやかなこの世の楽しさに触れさせてやろうと私は画策するが、元来質素で母親の手料理の好きなよしゆきは、親に無駄使いさせまいと、そして母親の手料理を食べてあげることが親孝行と何もかも分かっているように、前方に見える我が家へわき目も振らず真っ直ぐに歩いていく。 思い出したように私は、 「せやな、残したらもったいないし、また、お母さん作ってくれヘンからな」と、自ら受けている仕打ちを話してしまった。  家に帰るとさっそく買ったばかりの洋服を取り出して、一人ファッションショウをリビングルームに備え付けられた大型鏡の前でやっている。  私はそれを座って眺めていた。なにかしら、心に淋しさが忍び込んでこようとしている。その淋しさを振り払うように、 「よう似合うわ、ほんまに、なに着ても似合うわ、せやけど背、高なったァ」と、我が子の成長ぶりをひしひしと感じながら足元から頭上へなめるように視線を動かした。
『この姿がもう見られなくなるのか!』 
  ふと、いやなものが横切った。 そんなアホな! そんなことがあってたまるか、と頭を左右にふりながら湧き上がる悪夢を切り離した。よしゆきはこちらの思いとは関係なく、気に入った洋服を何度も眺め鏡に移ったみずからの姿に納得したのか、 「お父さん、部屋でギター弾きたいから、ドアー閉めるで」 「う、うん」  もっともっと話続けていたい、息子の顔を見続けていたい、そんな思いとは逆の行動をとられてしまうもどかしさ、歯がゆくも、くやしくもあった。そんな時は密かに買って置いたガンの本を読みあさった。
「ガンが治った」 「奇跡の生還」 「ガンに勝った」 「医者がガンになったとき」 「漢方でガンに勝つ」 「免疫力でガンを抑える」等々を乱読し続け、なんとか「キセキ」を起こすために重要部分はメモに取り隠し持っていた。妻と交代の時を選んでこっそりと電話をして、先方の先生と相談をしていた。肩書きに大学教授とか医師とついていればX線写真と診断書を持って尋ねて行った。 「先生、どうですか?」 「マーカーの数値が高いですね」 「治るでしょうか?」 「さあ、それはやってみなければ分かりません」 「薬は効くんでしょうか?」 「効く人はよく効きます」  何時間も待たされて当たり前のことを聞いて、何十万もする保険のきかない薬を買ってきた。あるものは煎じて飲ませ。あるものは、オブラートに包んで飲ませたが、どれもこれも飲みづらく噴水のように吐き出した。わらにもすがりたい気持ちから、無我夢中で、ありとあらゆる門を叩いていた。ほんとうに効くのだろうか、と言う疑いよりもなんでもいいから治してくれ、その一途な思いだけで、大金をポケットに詰め込みタクシーを飛ばしていた。  

 再治療の日が決まった。 アレルギー反応を起こした薬を一部取り替えて行われる。新たに抗ガン剤による副作用の注意書きを看護婦から受け取り、読みながらよしゆきにどう伝えようか散々悩んだ。当事者が読んだら眼を回すだろう。そんな副作用があれやこれやと書き綴られている。 私は一言ひとこと、言葉を選んでよしゆきに説明を始めた。 「きつい、ええ薬使うから効き目があったら、毛が抜けるかも知れヘンで」 「毛、抜けるの! いややなァ」 創造した以上には驚かなかった。分かっているのか、覚悟をしているのか、それともやはり、たいした病気ではないと信じていてくれているのか?  己の心にウソをついて笑って伝える難しさ、告知すれば楽であろう、しかし、その時に起きるであろう子供のショックとその後の対応を考えれば言えなかった。  
  今回は、新米医師に担当医、看護婦と前回に比べて病院側も慎重を期しているように感じられた。前回のアレルギーショックがあったので、ゆっくりと抗がん薬が伝わるようにと、足の甲の血管から点滴の針が打たれる。横で見ている私までが痛々しく、まして、あの下手くそ新米医師が打ったからなおさらである。例外にもれず二度、三度と皮膚に針のアナをあけ、
「スイマセンもう一度」
  いったいこいつは何をどこで学んできたのだろう。まったく医師には向いていない。長年、大阪の船場で人を多く採用してきている私にはそれがわかる。わずかに手も震えているかのようにも見えるし、顔に明らかに、「苦手」と現れている。私は、この医師を怒鳴りたい心境を強く我慢し、黙って拳を握り締めていた。 横で見ていた中堅の医師が、見かねて「僕がやる」と代わり、よしゆきの足の甲に浮き出た太い血管に、針がやっとまともに刺された。 『やはり医者を作るところだから、よしゆきは実験台にされている、これが大学病院か』と私は内心思った。
  心臓までゆっくりとたどりつくように遠い足の甲から入れていきながら、アレルギー反応が出ないか、よしゆきの顔色や様子をうかがっている医師達。 『最初からこうすればいいものを』と口に出したかったが、私も様子をうかがいながら、試験上手な学力だけで医師免許を取ったと創造できる人の命を救うという認識に欠けた若い医師ふたりの横顔を見つめていた。
「気持ち悪くないですか?……大丈夫ですか?」と、担当医がよしゆきに聞いている。
  よしゆきは、その都度軽く、「うんうん」と、うなづき、安全を確認した医師達は会釈をして病室を出ていった。  薬がゆっくりとゆっくりと身体に入っていきほぼ全身に回りだした。点滴の瓶も空に近づいてきたとき、よしゆきが「ウエッーウエッー」と、吐き気をもよおし眼が充血しだした。続けさまに吐き気止めを入れるが、「ウエッーウエッー」と、眼を真っ赤にして食べたものと胃液が、胃のそこから這い上がるように口をこじ開けて、吐き出されてきた。途中からは黄色く濁った液しかでてこない。出るものがなくなっても空えづきが続き粘っこい唾液と黄色い液が口内に溢れ出し、病院の鉄製の小皿から溢れ出す。前もって用意しておいた洗面器をアゴの下に当てっぱなしにした状態が続いた。 何もかも出尽くしたのか、それとも吐き気止めが少しでも効きだしたのか、目も頬も口も、への字のようにだらりと下向きの状態で、ぼそり、「お父さん、鉛、飲み込んだ見たい」と、言った。 がっくり、表情に活気がなくなり、ぐったりと全身の力が抜けた身体になっている。自分でもどうなっているんだ? 力がでない? と身体全体を見回し不思議がっている。見るからに辛くしんどそうである。  
  私は、半分泣きそうになった顔に力を入れて軽く微笑みを作りながら、
「我慢やここを乗り越えた者が勝つンやてぇ、なッ、ガマンや辛抱や、よしゆき」
  力の入らない、とろっとした目で首を前に傾げて、 「うん」
  ジッとしていてはいけない、動いた方が良い、と医師も看護婦も言うので、踏ん張りの利かないふらつく身体で病院内を歩き回る。良くなりたい、治りたい一心で、歯を食いしばって月面をあるくアームストロング船長のように右左に揺れながらよしゆきは歩いている。私は、よしゆきの背にそっと手を当てながら後をついていく。回廊のような病院を一回りして談話室まで来たとき、肩で息をしながら窓に両手をついた。
  ハァハァ肩が波打っている。そっと首を上げ窓の外を眺めている。窓の向こうに通天閣がそびえている。しばらく眺めていたよしゆきが、私の方を向いて、ポツリと言った。
「はやく、元気に成りたい!」
  後ろに控えていた私の目頭に涙が溜まって一粒落ちた。どんなに目頭に力を入れても涙はこぼれ落ちた。我が子に見せてはならない涙顔。くるりと振り返り、咳をするふりをしてハンカチで涙を搾り取った。
「ぼちぼち部屋に帰ろうか、疲れたやろう」
  抗ガン剤を打つまであんなに 元気だったのに、本当にこの薬は効くのだろうか? ただ、苦しめているのじゃないのかと不安こもごも足取りは重い。僅か十数メートルが長く遠く感じられ、長身のよしゆきの身体が右、左にふらふら揺れる後ろ姿を見守りながらついて歩く。途中ナースステーションの前で看護婦たちに会釈を交わしている。すでに、病院内では若いのに可哀想と言うささやきが薄く洩れていた。その声は耳には聞こえはしないが肌で感じることが充分できた。
 

  恐れていたことが始まった。
「うわッー何やこれッ、お父さん毛がいっぱい抜けてるぅ!」
  ズぼっ、と抜けたその束で、枕元がいっぱいになっている。 恐ろしい現象を見た驚きで私の身体が身震いした。
「薬が効いてンねン、薬が効いてる証拠や」と、兼ねてから用意していた言葉で精一杯慰めた。
  しかし、髪の毛に触れるだけで次から次へと抜け出した。 視線をよしゆきに向けていることが出来ない。私は、窓の外を何気なく見た。窓の手すりには鳩がいっぱいとまっている。胸に溜まったうっ憤のはけ口を鳩の群れに向けると、バタバタっと一斉に飛び立ち、行儀よく上空を旋回しだす。いつもはベッドから眺める少ない楽しみの一つだったのが、平和のシンボル鳩? どことなく忌々しい気持ちになった。濡れた瞼の前方に海遊館のゴンドラが小さく見える。その上空を大きな夕陽が空を赤く染めている。ブラインドを降ろす手に強烈な西陽があたり、落ちた涙を吸い上げた。 よしゆきだけ苦しめるわけには行かない。 痛みを分かち合って少しでも苦痛を和らげてあげたい。そう思った私は、手で頭をさすりながら照れ臭そうに言った。 「お父さん明日坊主頭にしようっと、これだけ暑かったらたまらんわ」髪の毛が長いのは嫌だというしぐさを取った。  すると、よしゆきは怒り口調で、
「何で、お父さんが坊主にするの? 無理せんでええよ、よしゆきだけするから」
  同情はまっぴらだ、そんな言い方だ。  余計なことを言ってしまったかな、でも……。
「いやー、もう、うっとうしいねン、汗かきやから」
「よしゆきも、こんな中途半端な頭、嫌ヤ」と、手で頭を撫でている。
「よっしゃ、明日地下の散髪屋で一緒にしょう、一休さんみたいにスパッ、と切ってもらおう、ひょっとしたら、もっと頭ようなるかも知れヘンで 」
「ニヤッ」と、笑って答えてくれた。  
  仕事を終えて病院に来た妻も声を詰まらせる。病室に入る前に廊下で私は幾度となく「泣いたらアカンで、笑いや、ごまかしや」と言い聞かせてきた。 実は私より上手だった。 よしゆきの好きな手づくりのご馳走を、さりげなく豪華に、「何でこんなぜいたくするのン?」と言われないように作って持ってくる。  
  そして、「あした、坊主にするの? 男らしくスパッとやってもらい、お母さんは長い髪の毛大嫌い、お父さんもスパッと切ったら」 「うん、あしたいっしょに散髪行くネンなぁ、よしゆき」  よしゆきはニコリと笑い相槌を打ってくれた。  病院地下にある無神経な床屋さんは、よしゆきの髪の毛の長さを見るために手で軽く引っ張る。 「あれ、なんでプツプツと抜ける? なんの病気や?」と、よしゆきの顔を覗きこみ私をドキリとさせる。鏡に映ったおじさんの顔に、眼で合図を送って「余計なことは聞くな」眉間にしわをいっぱい寄せて文句を無言で言うが、「肺かなんかの病気か? でないと、こんな毛抜けるわけないけどなぁ」とおまけに素人診療から、どこそこの病院は何がよく効くとか、薬は何が良いとか、たまらない。鈍感もはなはだしい。  さらには、医者もどきのセリフを口走り、何科に通っているのか、入院して長いのか、どんな薬を飲んでいるのか、と、まったくうるさい。  我慢できなくなった私は甲高い声で、 「副作用ヤッ」黙って仕事するようにキラッとにらみ、口に指を一本立てた。  廊下ですれ違った婦長に、「地下の散髪屋、あの口なんとかしいや」 「困ってますの」婦長は皺の多い顔をもっと皺だらけにして答えた。  二人の一休さんが出来上がった。坊主頭二人がいる異様な病室だ。 看護婦が「うふふ」と笑いをこらえている。私の態度が滑稽なのだろう。そこまでしなくても、という顔をしている。親の気持ちなど毎日病人を扱っている看護婦には分からないだろう。笑う者は笑わせておけ、俺にはおれのやり方がある、と私は一切気にしなかった。  床屋に行った翌朝、よしゆきの枕カバーにゴマ粒のような髪の毛がびっしりと付着している。一番短い三厘刈りをしてもそれが抜け、ちくちくと首筋を刺して痛い。それをガムテープで取りながらよしゆきが神妙な表情で、言った。 「お父さん、今度家に帰ったら、頭、剃って!」 心臓のポンプがボコっと波打った。ひとつ深呼吸をしてから 平静を装うって、 「せやな、一休さんもつるつるのピカピカ頭に毛が生えたンや、順番まちごうとったなァ」と、笑いながら悲劇を味わっていた。  数日して、歩いていける距離の我が家へ抗ガン剤の副作用でふらつくよしゆきを、病院の車椅子に乗せてつれて帰ろうとした。 その時、一人の看護婦に、 「病院の車椅子は持ち出し禁止です」と、止められてしまった。 「おんぶして帰れと言うンか?」 「でも、規則ですから」と、睨み付けてくる。 「見なかったことにしたらええがな」と、すごんでみせた。 その新人の看護婦は、そのまま廊下の奥にある薬剤調合室の方へ消えた。 「融通のきかン、ブスやのう、よしゆき」 「お父さん、ビビらしたらサービス悪なるやン」 「せやけど、目の前に家があるのにタクシー乗れちゅうンか?」  上町台地の傾斜が残る夕陽が差す丘を急ぎ足で押し上げる。盲人用の凹凸道路が車椅子をがたがたと揺らした。 「ゆっくり押して」 「はやく行かな、風邪引く」 「でも、怖い」 人に見られるのがどこか恥ずかしく、下り坂をかなりの速さで車椅子を押していた。駆け足同然に押すので車椅子が傾く。ジェットコースターの下りの境地を感じたのだろうか。 「危ない、怖い」 顔が売れている私は、誰かに呼び止められるのを避けるように急ぎ足となってしまう。平坦な道に入ってゆっくりと押し出した。近所の人に会わなければいいが、そんな気持ちが交差する中、マンションの玄関前まで到着した。大きなドアーを開けるのが難しい。車椅子を押しながら開けようとするから手が届かない。足で蹴飛ばすと跳ね返ってきてガラスが割れそうだ。「あ、そうか」と後ろ向きになりお尻でドアーを開けて入った。 エレベーター前まで来たとき、他の住人が見たら何と言うだろう? もし、質問されたらどう返事をしようか、頭の中で弁解を考えながら十三階に上がっていたエレベーターが降りて来るのを待った。見上げる表示が十三、十二、とゆっくりと降りてくる。ため息が思わず出る。狭いエレベーターから数人の人達がぞろぞろ降りてきたが、バブル崩壊後住人の移動が激しくしょっちゅう引越しセンターに占領されているエレベーターから降りてきた別階の人たちとは普段からこれといった会話もない。 「こんにちは」と会釈を交わすのみで父子だけで乗り込めた。  気にしていた母親も、早い時間に船場にある自分の店を閉めて帰ってきた。かねての打ち合わせ通り、笑顔と御馳走の段取りにかかった。 「よしゆき、顔色いいなァ、今日すき焼きよ」明るい声で母親が言う。 息子たちの大好物だ。母さんオリジナル 、名づけて母さんすき焼き、他にも母さんサラダ、母さん肉じゃが、母さんカレーがある。嫁に来た当時は、卵焼き一つ出来なかったが、口の肥えた私の猛特訓の小言のおかげで、独自性に富んだ母さん食堂の幕開けだ。 普段は、商売柄ストレスがたまり、喧嘩がたえない夫婦だが漫才のネタのように打ち合わせをして、ややオーバーアクションながら笑顔を絶やさず会話と食事を楽しませることが出来た。 母親が食事を勧めている。 「おかわりは? よしゆき」 「うん、おかわり頂戴、今日の肉、めっちゃうまいわ」 「当たり前や百貨店で一番高い松坂牛よ、天皇陛下とよしゆきだけ、こんな美味しい肉食べれるのは!」 「ほんまにうまいわ、お父さん食べへンの?」 「う、うん、食べてるよ」 我が子が、無心に食べてる姿をボーと見つめていた。 「何ジロジロ見てるの、食べにくいヤンか」 病院食は、意識的にほとんど食べなかった。百%患者になるのをいやがっていた。今日のよしゆきは、食欲旺盛で母親の手料理を一生懸命に味わって食べ、体力を回復させようとしている。目的は何であれ、何ともほほえましく幸せな時間なんだろう。今までにも何度もあった同じ光景が、これほど貴重な時間だったとは! 「ごちそうさまでした、あーおいしかった」少し痩せたお腹をさすっている。  立ち上がって自分の部屋の方へ向かいながら、 「チョット部屋でギター弾くから」 三本あるエレキギターの中から一番のお気に入りを手に持ち弾き始める。まるで、殴りつけるように猛烈な勢いで弾いている。いつもの優しい音色ではない。怒りを込めたような荒々しさが、家中に響きわたっている。よしゆきらしくないリズム。ギターが苛立っている。ギターが怒っている。ギターが泣いている。家の中の時計や掛け軸や置物までが悲しみに浸るようなメロディー。愛用のギターをひと通り弾き終わったのか、ピタッ、と音がやんだ。物音がしない。天井を見つめてベッドの上で大の字になっている。どこか一点を見つめているのか眼をつぶっているのか、先ほどお茶を運んだドアーの隙間からかすかに見える。シーンと張りつめた空気が部屋中に充満した。私も妻も顔を見合わせるだけで沈黙したまま。何を考えているのだろう。 重苦しい静寂のなか、突然パッーと一気に起きあがって来るなり、言った。 「お父さん、剃って!」 新聞を読むフリをしていた私は、「うむッ」と、頷いた。 それは、切腹を覚悟したサムライのように凛々しく見えた。 すでに、お風呂の用意は出来ていた。先にお風呂に入ったのはよしゆき。私は呼ばれるのを待っていた。母親は作り笑顔がつくれず、嗚咽をもらしそうになったので自分の部屋に閉じこもった。 「お父さ〜ん」と、風呂場に響く声がした。 右手にカミソリを持って私はおもむろに入っていく。その心境は介錯を受け持つ武士の如く、断腸の思いであった。 よしゆきの背中に立ち、カミソリを思い切って前頭部のまん中に持っていき、一気にゾリッ、と後ろへ引いた。脳天に地肌がうっすらと血液と共に浮かんだ。どこまで苦しめば良くなるのか? 果たして治るのか?「キセキ」は起きるのか? そんな思いを巡らせながら、前、横、後ろと二枚刃のカミソリを入れていった。 泣いては成らない、ここで明るく振る舞わなければ、何かを言おう、しかし、言葉が浮かばない。 とっさに、 「K―1のベルナルド見たいヤなァ、強そうに見えるわ、なかなかよう似合うてるで」  風呂場を出て大型鏡できれいに剃りあがった頭の形を何度も角度を変えて見ている。 「おわったぞぉ」 私が言ったので部屋から出てきた妻はよしゆきの剃りあがった頭を見た。無理に笑おうとしているが、顔が強張って目が潤んでいる。 私の『泣くなっ』睨みの聞いた視線を感じて必死に堪えている。 なぜかよしゆきの顔には笑顔がある。まんざらでもなさそうだ。 「パソコンするわ」と言って、指も軽快に友達にメールを打ちだした。 (もうすぐ退院出来る。オレも頑張って追いつくからみんなもガンバレ、苦しいときにがんばれ、受験競争に負けるな)と、病人の方から励ましている。そして、(オレは今、K―1のベルナルドの頭になったゾー)と、自ら教えている。マイナスをプラスに、逆境を好転さす名人と、学校や友人達の間では言われていた。悪いことの後には必ず良いことが待っている、と宛先不明で戻ってきたよしゆきの年賀状に書いてあるのを、以前に私は見たことがある。 我が子を白血病で亡くした医師の本を読んだ。 『同じ痛みを持つこの先生ならもしかして助けてくれるかもしれない』 そこを訊ねた時の事だ。 他の病院と同じようにX線と診断書を書いてもらって出かけた。本来ならその病院のある四国まで行かなければならないが、大阪に診療所があると言う。電話で予約を取りメモした地図を見ながら訪ねて行くと、予定より十五分早くついた。時刻は夕方五時を回っていた。なんとそれから、夜十時まで待たされた。医師の来るのが遅すぎるために(その診療所では、飛行機が遅れたと言っていた)遅れて申し訳ありません、と言う弁明もない。しかも態度は傲慢そのもの。 『どうして?』  助けて欲しい一心で誰も疑問や不満を言う者はいなかった。私も我慢した。やっとのことで順番が回ってきた。X線写真をかざし診断書を軽くさっと読んで、「あんたお子さん何人や?」と、いきなり訊ねてきた。 変な事を聞くな? と思ったが、「二人です」と、答えた。 すこし絶句しておもむろに立ち上がり、数歩あるいて後ろを振り向きざまに、「ここまで来たら全滅や」と、吐き捨てるように言い向こうの方へ行ってしまった。 一瞬、理解が出来なかった。それでも十何万円分の薬を山のように買わされた。胸につかえるものが残った。一人、言葉の意味を自問自答しながら帰った。抗がん剤やステロイドを否定されるその先生の名がついた新薬というか健康食品というか、調合された漢方薬を煎じて飲ませた。土瓶も、水もすべて支持されたものを使った。(最も効果が現れやすいとして指定の物を買わされた) わらをもすがる気持ちで飲ませた。苦くて顔をゆがめながらも、「治りたい」「早く治りたい」だからよしゆきは我慢して飲んでいた。 だが、これも例外にもれず途中で、「当病院を信頼されてないんですか?」と、中止させられた。私も胡散臭さから「効く」とは、思えなかった。効いて欲しかったけど、人を何時間も待たして、「ここまで来たら全滅や」なんて言う医者、信じられない。まして、「お子さん何人や?」たくさんいたら一人ぐらい死んでもいいのか! そんな口ぶりだった。こんなまがいものの医者にまで頼らなければ成らない自分が情けなく悔しい。でも誰に相談して良いのか、親戚にも医者はいる。有名大学病院にもいる。 「抗がん剤しかない」冷たい一言しか返ってこない。 「ほかに何か、新しい治療とか新薬とか、保険など効かなくてもいいから」と懇願しても、「ないなぁ」 「今の病院は信頼できない」 「大きな病院やから、信頼するしかないでしょう」 私は相談するんじゃなかった。聞くだけ無駄だった。何とかしよう、どこそこの病院がいい、とか言ってくれるものと期待していたが、普段お付き合いが浅いのか、それとも万が一のとき責任を負わされるのを懸念したのか、他人より冷たかった。 そのあと、新聞などに良く出ている、アガリクス、メシマコブ、サメの軟骨、と試してみた。効果の程が現れないときは、先方に聞いてみた。すると、判で突いたように、どれもこれも同じ答えが帰ってきた。 「本来なら、抗癌治療の前にすべきものです。抗がん剤によって、効果の程は、半減する」なんと近代医学を否定してきた。 厚生省が認可して、全国どこの病院でも採用している抗癌治療を否定する。すごい自信だと思った。この人たちは、いずれノーベル賞をとるだろう? 自分が癌になったときには、ご自分の治療法で治してもらいたい。その時は、必ず御一報頂きたいと私は思った。 免疫療法で有名な医師がいる大学病院なども訊ねていた。もちろん書物で知った知識からだった。そこでも保険の効かない高価な免疫治療の薬を十何万円も、「やってみなければ?」と言うかすかな望みをくすぐられて買ってしまっていた。 医師(病院)によって見解が違う? 希望と不安が重なり合って何とももどかしい時間が無駄に過ぎていく。  入院している病院では、治療は中断したままだ。なぜだろう? その間、病院からは経過報告は知らされないまま、退院勧告を受けていた。余命三ヶ月が近づいてきているにもかかわらず、どこへいけと言うのだろう。再三、再四、言われていた。別の病院を紹介する、と。ハラワタが煮えくり返るぐらい親切な言葉! 医者ってこんなものかとほんとうに腹が立っていた。 別室で最も偉い先生(医師)とお話しをすることになったが、どうして今まで偉い先生は、現れなかったのだろう。いろいろと病院や医師たちに対して不満が溜まっていた。人の子だと思って……。 レンズの分厚いメガネをかけた鱈子唇の若い先生が、緊張の面持ちで口を開いた。 「余命、あと一ヶ月」 私と妻は目をひん剥いて驚いた。 「当初効いていると思われた薬が、まったく効いていない。むしろ拡がっている」 私は、ショックと腹立ちで、こめかみの血管が浮き出た。 『ただ苦しめただけかッおまえらッ』 次に偉い先生が、メガネの奥でギョロつく眼で薄い唇を開いた。 「あとに、患者さんがつかえてますから、部屋を空けて欲しい」 「どこへ、行けとおっしゃるンですか?」 「Y川キリスト病院(ホスピス)を紹介します」 「なにっ! そこは、もう死ぬ、と諦めた人が行くとこじゃないですか?」 「お父さんッ、人間は、一回は死ぬンヤッ、認めなさいッ!」 「その言葉、自分の子供によう言うかッ?」と、私は切り返した。 部屋を出るときにもう一度一緒にいた若い担当医に訊いた。 「自分のお子さんによう言いますか?」と、静かに聞いて見た。 その先生は眼を真っ赤にされ、首を横に振った。 どうしたら、自分の子供が死ぬことを認められようか、そんな親がいるなら会って見たい。何と言う病院なんだ、ろくすっぽ治療もしないで、私が独自で調べた治療は、ことごとく否定し中断しておいて、抗がん治療の始めによしゆきを殺しかけておいて、こいつらこの病院わッ、建物だけ立派で中身は空っぽ、人を救うために成った医者じゃない、いい生活をしたいから受験に受かった医者たち、それでも人間かッ、医者かッ、私は興奮している。 何とか救いたい。それが親であろう、命の灯が消えかかっているのを、上から息を吹きかけて消せと言っている。我が子がガンになったらシスプラチンの治療をして、高熱と嘔吐と嫌悪感に襲われて、挙句の果てには、「人間は一回は死ぬンや」と、我が子に向かって言えば良い。それが、多分立派なお医者さんで偉大なお父さんなんだろう。そんなことは私には絶対に出来ない。わが身に変えても救いたい。(バカな父親だから)  しかし、内心では、いよいよのときが来ているのかもしれない。そうだ、東京の長男を一度呼ぼうと電話をいれた。 「今度の連休によしゆきの見舞いに来なさい」 「えっ、なんで」 「なんでて、よしゆきのぐあいあまりよくないから」 「メールで、だいぶ良くなったって送ってきてたで」 「あいつらしいなぁ」  兄に心配を掛けまいと常に元気でいる、もうすぐ退院できると送っていたらしい。大阪に着き病室へ入った長男の一幸は、あまりの衰えようと、痩せかたに驚いていた。 「良くなってるって効いてたから」 「おとうさんもそう思ってた」 「でも、あのおしりの肉の落ち具合見てたら、ひどいなってわかるわ、なんとかなれへんのン?」と、私のほうを見た。 「キセキしかない。入院したときに治れへんって医者が言ってたやろう」  現実に引き戻された長男は、実の弟がほんとうに死んでしまうのか? その現実が近づいて来ていることを実感して涙ぐんでしまった。横で妻も泣いているが気丈夫なこの人は、「希望を捨てないでッ」と言った。 その頃も、必ず良い薬が出てくるはずだと、いつも信じて読んでいた新聞にある時、最先端治療と言う見出しで記事が出ていた。末期の肺がん患者が、今では数ミリになり、ゴルフも出来るまで快復した! 「アーッ、これやッ」と、直感的に想った。  全国紙であり、日本で一番大きな新聞社、うそを書くはずはない。猛烈な希望が湧いてきた。『あった、あった、やっぱりあった、助かる、たすかる』 早速電話をして予約を申し込んだ。すると、絶望的な言葉が返ってきた。 「翌年まで予約がいっぱいなんです」 受話器が重く感じる。 虫のような声で、 「あぁ、そうですか」 少し間があって、 「もし、よろしければキャンセルが出たらお電話を差し上げましょうか」 鼻をすすりながら私は、 「お願いします」 夢遊病者のように廊下をよしゆきの入っている病室九六四号室に入ろうとした。ふと、九、六、四、『く、ろ、し、苦、労、死、苦労して死ぬ』……あわあわ、と身体が震え悔し涙が滴り落ちてきた。絶望的な日々が続いた。悲しみと苦しみと恐ろしさが体内でぶつかり合って私の業の深さを思い知らしめてくれた。 妻は、気がまぎれるように、と仕事に精を出し、夕方早い時間に帰宅して、腕によりをかけてよしゆきの好きなモノを作った。毎夜のように美味しそうなよしゆき好みの食事を持ってきて夜には看護を交替するようになっていた。不安が隠せなくなったある日から早い時間に仕事を切り上げ病院に来ていた。明るく振舞うように気を使っていても徐々に交わす会話が湿りがちになっていく。テレビなどを見ていてもうるさく腹が立つだけ。私はイライラが募り、やめていたタバコを吸わずにいられなくなり、思わず喫煙室に入って一服吸った。よしゆきの病室にもどって、「調子はどうや?」と訊ねたら、「お父さんタバコ臭い」と言われた。敏感になっている。すべてにおいて敏感になっている。 これといった治療もなく、病院側とも異様な空気を感じる絶望の日々が続いていたそんなある日、私の携帯電話が鳴った。 「キャンセルが出ました。今週の土曜日に来てください」  新横浜にある最先端治療の病院からだった。大急ぎで診断書を書いてもらい。X線写真の入った封筒を持って病室を出ようとしたその時、 「お父さん。僕にもそれ見せてっ」 今までそんなこと言わなかったのに、 「新聞記事も見せて」 おどおどしている私に、 「さっき新聞見たけど記事の部分だけ切ってある、どこにあるの? 見せて」とベッドから首を伸ばしてか細い声だが、鋭い口調で迫ってくる。 慌てる私は、「なんの記事? あぁ、あれな捨ててしもうた」 ちょっと、あきれかえったよしゆきは、「どんなことがかいてあるの?」 私は、正直に言うしかないと思ったが、「保険は効かないけどアメリカから最高の薬を取り寄せて治療してくれる先生がいてるネン。厚生省の認可を受けてないからチョット不安があってンけど、凄い先生らしいわ、そんなことが書いてある記事や、お父さんにまかしとき」と眼に力を入れてニコリと頬笑んで見せた。 「そしたら、その袋、病院からもろたその袋、僕のことが書いてあ るねンやろ? それ見せて」 「これは、誰も見たらあかんネン」 「なんで? 僕のことやから見る権利がある」 「医者しか見たらあかんって、規則や」 その言葉を聞かされたよしゆきは、すねたように首を反対側に向 けてしまった。 しばらく沈黙があった。 「お父さんに任せるわ」と、すべてを委ねるように背中で言った。 妻は、よしゆきの横で眉を寄せて黙って聞いていたが、 「そうや、お父さんに任そう」 優しくそう言って、よしゆきの顔をそろっと覗きこんだ。 「うん」 私は、大急ぎで新幹線に飛び乗った。診断書とX線写真を入れた袋を胸元で大事に持っている。新横浜まで二時間とすこしなのに、車内で走りだしたい衝動に駆られる。静かに眼を閉じれば昔のことが思い出されてきた。 よしゆきが生まれたときは、三千七百グラムで大きく丸々と太っていた。逆子で生まれた。へその緒が首に絡み付いて危険な状態だったと産婦人科の老看護婦が恩着せがましく言ったのを思い出す。そう言えば妻は、大きなお腹を逆さまにしたり、うつ伏せになったり、逆子矯正体操なるものをやっていた記憶がある。 「こんな危険な状態で九死に一生を得た子は長生きしますよ。これもウチの先生が凄いから、お上手だから無事に生まれたんですよ」と、チップでもはずめと言わんばかりの口ぶりが今でもはっきりと脳裏にこびりついている。 「長生き」と言ったその老看護婦に今会ってみたい。もしご健在ならば、その根拠を知りたい。 よしゆきは、子供のときから病気の少ない丈夫な子で、すくすくと育ち、とにかく素直でやさしい子と言う印象が強く残っている。二つ違いの兄のお下がりばかりでも何一つ文句を言ったことがなく、器用でお菓子や料理なども作って親にご馳走するところがあり、勉強、パソコン、ギターと教えた事は、人並み以上にマスターしてしまう頭の回転の速い子で、礼儀も正しく親戚中の評判であった。 中高一貫教育の有名進学校に合格し、将来の夢が広がった。 「勉強も一生懸命、運動も一生懸命」という、私の教えをよく守り、クラブ活動はバスケット部に所属し、それ以外にも野球やサッカー、ボクシングとスポーツ好きで、物まねやお笑いも大好きなスマートな好青年である。常日頃気付いたこと感じたこと趣味の音楽のことなどを学校新聞に発表し、学校中の評判を呼ぶ。みんなの注目の的となり、知らない者はいない人気者。親ばかといわれようと私の自慢の子である。  新横浜駅に着いた。 タクシーに乗って目的地をつげた。思ったよりも小さな病院だ。有名な大学病院が目の前に見える。ガンやリュウマチ専門病院といった印象を持った。受付まで上がっていくと人がいっぱいる。新聞に出る前から、関東方面では有名なところだったらしい。 順番は一番最後。 その間、多くの患者さん、もしくは付き添いの方々が待合室でうつむき加減に黙って座って待っていた。 『助かりたいんだぁ、助けたいんだぁ』 全員が暗い表情をしながらも、希望を捨てない信念のようなものがひしひしと感じ取られる。 この人達も言われたのだろうか。 「人間は一回は死ぬンヤッ」と。  さほど待たされずに名前を呼ばれた。なぜか、ドキドキする。診察室に入ると、例のように、X線写真が掛けられ、電気のスイッチが入っていた。私が入る前から先生は思案していたらしく、重苦しい空気が漂っている。 「この度は、誠にありがとうございます。ご無理を言って申し訳ありません」 「いーえ、新聞などのマスコミに出ると、一斉に来ますから、迷惑かけてしまうようになってしまって、逆に、申し訳なく思っております」と、二言、三言挨拶を交わした後、視線をX線写真に向けられたので、すかさず訊ねてみた。 「先生、いかがでしょうか?」 「そうだねぇー、かなり進行していますね」 細い棒のようなもので、 「ここからガンが拡がって、ここと、ここにも転移している」 「あ、ハー」と、情けない返事しか出来ない。(見方が全然違う) 「今日は、こういう難しい患者さんばっかり、さっきも大阪から、十七歳の娘さんの親御さんが来られたけど、脳腫瘍のひどいヤツでね、泣きつかれちゃった」 私は、その言葉を聴いたとたん、今だっ。 「先生ッ、この子も、もう行くとこがない。病院からも退院勧告をされて、おまけに免疫治療や、漢方療法、いろいろとやりましたけど、どれもこれも信頼性に乏しく、ここが最後の頼みの綱と思って来ました。何とかお願いします」 「でも、これは難しいなぁ、やりたくないなぁ」 「先生ッ、死んでもかまいません。何もしないで、緩和病棟に入れて、死だけを待つなんて、親として出来ない。最後の最後まで、諦めずに治療して死んだのならまだしも、何もしないで、たった十九歳の子をどうして見捨てられましょうか、一生悔いが残る、見捨てたと子供に恨まれるッ。移植でも、血でも、命でも、なんでも提供しますから」と、泣きながら必死にすがりついた。 「うむー……分かりました。そこまでおっしゃるなら、でも危険ですよ」 「はい、分かっております」 「ただ、入院してもらわないと、大阪から通えないでしょう」 「ここは、入院できないんですか」 「うん……池袋の病院を紹介するよ、ここのよき理解者でね、そこなら預かってもらえると思うよ」 「そうしたら、そこの病院から通うんですか」 「うん、治療のあとの処置をやってもらわなければならないし、車や電車の移動も大変でしょう、そこだったら救急車で横になって来れるから、紹介状書いて置くから、普通の病院は、いやがってねぇ」  私は直立不動になって深々と頭を下げた。 「いろいろと、ありがとうございました。宜しくお願いします」  椅子に腰掛けたまま見上げるように先生は、 「だって、迫力がすごいんだもの」 私は、帰りの新幹線に飛び乗り、よしゆきの入院している病院へ戻ってきた。そして、すぐ退院することを決めた。一日も早くこの病院を出たかったからである。何も治療をしないで放っておかれる状態に耐えられなかったからだ。 「保険が利かない。前例がない。当方ではしたことがない」 融通の利かない公務員のような答弁。飽き飽きしていた。信用も出来なくなってしまっていた。他の病院や治療のことを訊ねても知らない、聞いたことがない。前例がない。 「あんたの同級生全員医者でしょう、先輩も後輩もいるでしょう、聞いてみて下さい、訊ねてみてください。どこかに何か良い治療法がないか」といろいろと懇願してみたが、責任を負わされるのが嫌なのか、冷酷な返事だけがいつも返ってきていた。 「部屋を空けて欲しい」 すなわち出て行け。 どこで死のうとどうなろうと、「知らん」そういうことだろう。まして、紹介をするといわれた病院は(諦めろ)とてもじゃないけど入れられない。一人悩み苦しんだ。 まだ、東京の池袋の病院も、治療の日程も決まってなかったが、短期でせっかちな私はすぐ退院の手続きをとった。どこか、病院側は、ほっとした様子だ。なぜなら、重症の患者が退院するのにかすかに笑みが見えるからだ。(失望した) 「よしゆき、退院するで、新横浜にな、すごい先生おるンや、そこで治療するねン、手続きとって来たから」と、言ったら、「ここの病院では治れへんのン?」  つらい質問が飛んできた。しどろもどろしながら、 「ここの病院な、保険のことばかり言うねン。厚生省の認可がおりてないとか、当病院では前例がないとか、お父さんは厚生省とか認可とかどうでもええのに、お金がいくらかかってもええのに、ただ治して欲しいだけやのに、ここの病院公立病院やろう、融通がきかんスカタンばっかしやネン」  渋々ながらも納得してもらい危険を覚悟の転院旅行をすることになった。 まず、延びていた手の爪と足の爪を切って旅の準備をさせた。爪を切った妻が、爪を捨てようかどしようか迷っている。私は眼でポケットを指した。そして、そっとその爪を捨てるフリをして、ポケットに隠した。妻も私も覚悟の上での新横浜行きである。 四ヶ月の入院生活で、部屋に貯まった荷物を整理するのは大変だった。英語の辞書、理科の大辞典、京大受験の問題集、センター試験の申し込み用紙と胸の痛む物ばかり、荷物の重さよりも心の方が重たかった。 ふらつく息子よしゆきを車椅子に乗せて病室を出た。病院側からの見送りなどは誰もない。逆に、こちらからナースステーションに挨拶をしにいった。 「お世話になりました」と、よしゆきも車椅子に座ったまま、ペコッ、と頭を下げた。よく磨かれた大きなガラス窓の向こうからは、立ったままの顔見知りの看護婦たちが、キョトンとして会釈を返していた。 病院前のタクシーに乗り新大阪駅と告げた。久しぶりの外の濁った空気と荒っぽい運転、病人を乗せているのにいっこうに気を使わない運転手。乱暴な運転で身体が左右に揺れる。 「運転手さん、ゆっくり走ってぇや」 「そんなことしてたら、商売になりまへんがな、不景気やのに」 顔が映るバックミラーに目と眼の火花が散った。 よしゆきは少し酔うたようだ。すぐには、車から降りられない。必死に吐き気を止めようとしている。 「大丈夫か? 降りれるか?」 苦しくて声も出ず、「うん、うん」と、うなずくのが精一杯のようだ。 ドアーの横に車椅子を付けて、横滑りに乗せようとしたがうまくいかない。 「いっかい、降りる」と、唸るように言った。 「はよ、乗り、生風あたったらアカン、おい(妻)駅員呼んで来い。誰でもええからッー」 妻は走って、駅員を呼びに行った。 「はい、何か」と、とぼけた面で駅員が言った。『見たら分かるやろ』 「これ切符ヤ、この子病気ヤ、どっか控え室ないンか?」 「控え室はございません」と、無神経な間抜け面の駅員。 「なんでないねン、政治家がよう控えとるやろが、そこでええから」 「それは、ちょっとできません、この奥に待合室がありますから、そちらでお待ち下さい」『アホか? こいつわ』 自動ドアーが開くたびに冷たい風が首元を襲う。すこしでも風の当たらない場所を求めて、交渉をしたが、らちがあかなかった。 あごの付け根まで毛布をあて、風邪を引かせないように懸命になる。 「肺炎になったらお仕舞いや」白血病で子供を亡くした医師からしつこいほど言われていた。 「新横浜行ったら治るンかい。金もったいないだけや」とも。 非人間的な言葉が平気で出てくる。これでも医師。おまけに本も出版している有名な先生からの送り言葉が忘れられない。 よしゆきの前に夫婦で立って風除けまでやり、寒さから守った。 私は車椅子を押して、荷物用エレベーターでホームに上がり、新幹線とホームの間に板を渡してもらい東京行きのぞみに、やっと乗ることが出来た。 個室の中は意外と狭く車輪の真上で神経がイライラするほど摩擦音がうるさい。 「こんな状態で、二時間以上も乗ってられんわッ、チョット車掌とこ、行ってくる」 その個室は障害者や病人用で、当初便利でよいと思って予約したのだ。JR天王寺駅で事情を説明すると切符売りのおじさんが教えてくれたのだが、とんでもない。車輪の振動が耳から入って全身を波打ってくる。 私は車両を変えてくれるように車掌にお願いをした。 「他の車両も、たいして変わらないですよ」と、邪魔くさそうだ。 「ええから、変えてくれッ」と、眉間にしわを寄せた。 「じゃ、八号車を一度見てください、空いてますから」 それで、十一号車から八号車へと移ることにした。車椅子を広げようとしたら通路の幅が狭くて通ることが出来ない、おんぶして連れて行くか? と思いきや、よしゆきが自分で歩くと言う、なんて気丈夫な子だろう、よろけながら十一号車から八号車までグリーン車にふんぞり返って乗っている他の乗客の冷たい視線を感じつつも、良く歩いてくれた。 「ここあったらええやろう、静かで揺れもすくない。あっち向きに座り、こっち向きは酔うで」 私は、四時間に一度の咳止めを二~三時間に縮めて、咳がでないように神経を使った。一度出始めたら一時間ぐらい収まらない。おまけにティッシュペパーの箱が空になるときもあったからだ。 母親も、仕事を休ませて連れてきたが、すったもんだがあった。 「仕事が大事か、子供が大事か?」 「分かってます。せやけど、今、年末でかきいれどきやし、商品も少ないから」 「アホかッ、会社なんか潰れたら、また作ったら仕舞いやけど、よしゆきは作れんどっー」 私は、車中ですこしでも楽しませようとしたが、本人にしか分からない苦痛が、よしゆきの身体をいじめていたのだろうか? 「もう、そろそろ富士山が見えるはずやで、見るか、せやけど、これ反対側やなぁ」 「ええから、お父さん静かにして」と、頭を窓側にもたれかけさせて、辛そうである。 「富士山過ぎたら、もうすぐ着くからな、もうちょっとの辛抱や」 車掌がもうすぐ新横浜駅に着くと知らせに来てくれた。 「どうぞ、こちらから、お降りください」と、先導してくれる。『コイツは親切だ。思いやりがある』 「よっしゃ、はよ行こう、風が冷たいから」肺炎が怖い。 エレベーターを降りて、タクシー乗り場まで行くのに遠く感じる。我々の事情を知らない人達が前を行ったり来たり、人ごみの多さで真っ直ぐ進めない。首をキョロキョロさせながら出口を探す。 やっと中央出口付近まで出て来て、タクシー乗り場を見ると、 「アッ、並んでる!」  かなりの人が行列を作っている。寒い中を順番を待たなければならない。師走十二月十日のやけに風が冷たい日だ。吹きっさらしの中で待つのは辛く時間が長く感じる。前のおばさんは何をしているのか、乗ったり降りたり、運転手も荷物をトランクにまた入れなおしている。 「早く出ろ」怒鳴りたい心境をグッと我慢して、さらに我慢して、礼儀正しく順番を守る。大阪人はマナーが悪い、そう言われないように堪えにこらえた。やっと私たちの前にタクシーが現れた。車椅子からそろっと降りて、奥のほうの座席に乗せた。 「やれやれ」そして行き先を告げた。 すると、「知らない」 ナニッ! とぼけたことを? 「タクシーに乗って、まだ三日目なんですよ」だそうだ。 降りるわけにもいかず、肺炎を極度に心配していた私は、我が身の運(つき)の悪さが言葉になって出た。 「道、聞きながら行けヤ、田舎もんと思うてなめとンか? こらァ、この子病気なんやドッー」 「柄が悪くてごめんなさい」と、妻が他人のような顔で誤っている。 「やかましいワい、道知らんから、タクシー乗っとるのに、運転手が知らんかったら、話にならんがなぁ、鈍くさい餓鬼ヤ」 あちらで聞き、こちらで聞き、イライラは最高潮に達した。まして、メーターは一人で来たときより、六百円も余計に上がっている。 「運転手さん、道知らんかったら、タクシー乗るなッ、ボケッー」と、大声で一喝してやると、よしゆきが「くすッ」と笑った。久しぶりに大阪弁まるだしの父親の迫力を見たのと、あまりの柄の悪さ、自分のために怒ってくれている。それらが入り混じっておかしかったのだろう。ただ妻は、私は関係ありませんと他人のような顔をしてあさっての方向に眼が行っていた。 その病院の上がホテルになっている。チェックインを済まして部屋に入ると、よしゆきもほっとしたようすだ。東京の大学へ通う長男も打ち合わせ通り到着した。 「やっと、着いたなぁ、何かお腹がすいてきた、お兄ちゃん、この辺何もないから、地下鉄の駅前まで行って、何か買うておいで」 長男が買い物に行っている間、体調のことが心配だった。 「体調は? どう? チョット熱計ろうか、はい、体温計」 顔色も良いし、さほど疲れていないようだ、咳も今は出ていない。 和やかな雰囲気で、食事が出来るように、演出をしていった。 「ここ、どの辺になるの?」と、よしゆきがゴッドファーザーのマーロンブランドのような声で聞いてきた。 「港北区ってとこや、せやなぁ東京のベッドタウンかな? 横浜もどんどん大きくなって大阪追い抜いてしもうた」  気がまぎれるように、深刻なムードにならないように私は多弁になっていた。 「ただいまー、いっぱい買うてきたで」と、長男が戻ってきた。 「うん、ご苦労さんあったな、こっちもっといで、なんやこれ、まるで遠足のおやつやがな」  私と長男が別室で寝て、よしゆきと妻が同じ部屋で寝た。長男と私は、夜遅くまで人生論や運命について語り合い、暗に、これからくるかもしれない非常事態にそなえて、覚悟の程を悟らせ、東京の病院での役割についても指図をした。しかし、二つ違いの弟が、治ると言う希望を最後まで捨てさせてはならないと言葉を必死で選んで喋った。 翌朝、一番に病院の受付に顔を出した。すこしでも早く治療をして欲しいと言う気持ちであせっていた。結局、キャンセル待ちなので一番最後に名前を呼ばれて診察室に入ることになった。先生は、よしゆきのMRI撮影をしたフイルムを見せながら、私と妻に説明を始められた。 「撮影中もかなり苦しそうに咳をしていましたが、なんとか頑張ってくれました。ここと、ここにガンが拡がっているのが分かりますか?」と、説明されたがよく理解出来ないまま、 「一番ええ薬を使ってください。宜しくお願いします」と、深々と頭を下げた。 「もちろん一番いいのを使うよ。時間がない。全部やるよ」力強い返事に聞こえた。頼もしかった。うれしかった。希望が持てた。……たとえダメでも。 寝台車に横たわっているよしゆきを治療室まで送っていき、 「頑張るンやで、咳は大丈夫か?」 かるーく、うなずいてくれた。そのとき先生が、 「立派なご両親持って幸せだね、頑張るんだよ」 よしゆきは、先生に微笑みかけて、軽く首をたてに振ってくれた。 私と妻は、その模様を別室にそなえてあるモニターテレビで見ることが出来た。この世にある最高の抗癌治療薬が、憎っくき患部めがけてカテーテル方式で噴霧される。 「やっつけてしまえッ、潰してしまえッ、このガンめッ、よしゆきの身体をいじめやがって」 モニターテレビに向かって、泣きながら思わず叫んでいた。妻も両手を合わせて泣きながら祈っている。腿の付け根の血管からら入れられた細い管がよしゆきの胸まで届き、アメリカから輸入された最高級の抗がん治療薬が噴霧され、毛細血管の先を塞いでガンを殺す。私も心臓の病気で以前入院したときカテーテルをしたことがあるのでよく分かるが、こんな方法があったとは、驚きと感激と希望とがモニターテレビにぶつかっていった。 どれぐらい過ぎたろうか看護婦さんが、「終わりました」と呼びに来てくれた。走って処置室に入りながら、 「よしゆき、大丈夫か?」 ……あッ、震えている。 薬による一時的な副作用、熱も高熱になる。座薬によって熱を下げて、落ち着いてから病院を出るようにと先生から指示をされた。 電気毛布にスイッチを入れ寒くないように懸命の看病をする。世界最高のアメリカ製の抗癌治療薬が入った胸の辺りは、真赤っかだ。 「先生、効果の程は?」 「それは、二週間ほどしてみないと、分からないから、二週間後に、予約を入れておきます。いいですか」 「二週間ですか……」 余命あと一ヶ月と言われていた。あと、数日しか残っていない。 私は心配がより一層強まった。 「池袋の病院から来ました」と、二人の男が入ってきた。 よしゆきを寝台車に乗せて救急車へ移動する。私はポケットから札束を出し、「よろしく」とチップを一万円づつはずんだ。二人の男はビックリしてお互いの顔を見合わせ、コクリと私に一礼をして、大きくサイレンを鳴らした。 「ウーン」 普段聞くとうるさくてたまらない安眠妨害のサイレンの音が頼もしく勇ましく、私たちのかすかな希望を大きく膨らましてくれるような耳障り。けたたましい音は、目の前を走っている車たちを蹴散らし、さらにマイクで「道を開けてください」と、鈍くさい車に向かって大声で叫ぶと、おろおろと減速した車が右左へ壁面にへばりつくように寄りだす。見晴らしの良くなった道路の真ん中に、モーゼの十戒、エジプト脱出のときのような一本の道が、さーっと現れた。目指すは東京池袋の病院へと救急車は突っ走る。  よしゆきは点滴をした状態で、かすかに身体が震えている。毛布を首の上まで引き上げ眼をつむっている。 数十分後、突然。 「何か、飲み物頂戴!」  我が耳を疑った私が、 「今、よしゆきが喋ったンか? 何か欲しいのか?」と、聞いてみた。 「うん、何か飲みたい」と、ハリのある声を出して喋る。 「お母さん、よしゆきが、喋った!」驚いた私は前に座っている妻に言った。 はっきりした声で喋った。このころは、咳が怖くて殆ど喋らなかった。それに、声も良く出なかった。それは、すでに縦隔から気管近辺までガンが拡がっていたからと言われていた。私だけが家族の中で知っていた。 「お母さん、はよはよ、ジュースジュース」と、大好きな愛媛のポンジュースを口に当ててやると、 「自分で、持って飲む」と言う。 嬉しくなって、微笑みながら、 「出来るか?」と、手に持たせた。 「ゴクッ、ゴクッ」と、実にうまそうに飲んでいる。 「来てよかったなぁー、治るわ、治るわ、絶対に治るわ、なぁ、お母さん!」 歓喜の声が車内を駆け巡った。 「うわー、よかったなぁ、よしゆき、よかったぁ」 嬉し涙でくしゃくしゃの顔を見合わせる感動の瞬間。 「よしゆき、ここどこか分かるか? 世田谷ってとこや、芸能人や野球選手がいっぱい住んでるとこやで、チョット見てみィ」と、私は、笑顔のよしゆきに話しかけた。 救急車は快調に走り約一時間で池袋の病院に着いた。 私は出迎えてくれた看護婦さんと妻によしゆきを任せ、担当の医師まで挨拶に行った。 実はぶっつけ本番だった。予約も確約も取れていない。部屋が空いてなかったらこのまま大阪の知人の病院まで夜通し走るつもりだった。 「先生、ご無理をいいまして、申し訳ございません」 「いやー、びっくりしたよ、もう来ちゃってるって言うんだもの、慌てて救急車を出したよ」でっぷりと貫禄のある体格にやさしさを含んだ顔立ち。 いやな顔一つせず他の病院の患者を預かってくれる。私は感謝の気持ちで首をうな垂れた。 「まっ、おかけ下さい。ここは、ガン研から九十人ほど預かってる。うちの看護婦は、みんなよく心得てますから、ご安心ください」 私は、大阪での経過などを説明し、なんとか、我が子を、救いたいがためにやってきたことを、魂の限り力説した。 「よく分かりますよ、僕も子供いるから、でも、ひどいことを言うなぁ、C大付属病院は、大きな病院なのに」  思い出しても腹の立つ大学病院の冷酷さ、私は顔中濡らして言葉を止めなかった。 「大きいだけでは、ダメです。心がなさずぎる。自分の子供に置き換えたら、簡単に分かることを」  うん、うん、とうなずかれ、私の必死の熱弁に胸を打たれたのか、それとも不憫に思われたのか、目頭を熱くしておられる。 「あんまり綺麗な病院じゃないけれど、僕も全力を尽くすから、がんばろう、お父さん、でも、お宅のお子さんのは、大きいですね」と、壁にかけたよしゆきのX線写真を見て、ポツリと一言。  部屋は三〇三号室、良い部屋番号だ。以前は九六四号室(苦、労、死)実にいやな部屋番号だった。キリンさん部屋とかパンダさん部屋とか、ユーモアーのあるものに変えればいいのに。試験合格だけが目当てで頑張ってきた受験上手医師の動脈硬化をおこしている頭脳では無理か。小さな部屋だがこの病院では、二番目によい部屋だった。看護婦の手際もよくすべてが素早い、点滴の針も一発で入れる。痛いの「い」も感じさせない早業。 『やっぱり、針仕事は女に限る』 すべては病院の指示通りにすればよかった。  よしゆきは最先端治療が効を報したのか、目の輝き顔の色つや共に良くなっている。こんなに早く効果が出るのか!  『もっと早く来れば良かった』 家族全員が久ぶりに明るい気分になり笑顔が踊った。 私が明るい声で、 「お腹すいたなぁ、何か食べよう」  すると、「よしゆきも食べるわ」と、普通の人と同じ調子で言った。 私は、前もって長男に買わして置いたおにぎりやスナック菓子を渡した。 「よっしゃ、よっしゃ、食べ、これ食べ」 お弁当係りの長男も同じように、 「これおいしいで、これも食べるか?」 みんなで、いろいろとたくさん食べさせようと声をかけていた。 『一日も早く元気に成って欲しい』 「そんなようさん食べられヘン、運動不足やのに、肥満児になってしまうやン」 「うわーハッハッハッ」と、全員を笑わせてくれる。 昔、家族で行ったあやめ池遊園地の芝生の上にシートを敷いて、一家団欒楽しくお弁当を食べている状景が、私の目の前に浮かんできた。 よしゆきが眼で私を追った。 「お父さん、パソコンとって」  パソコン! 一瞬驚いた。凄く元気になっているから。 「よっしゃ、はい、ここに、置くわな」と、ベッドに付いている小さなテーブルの上に置いてあげた。 どうも友達たちにメールを打っているようだ。東京に来たこと、元気でいること、みんな受験勉強ガンバッテルか? 退院したら四万十河でバーベキューをしよう。そう言うふうなことを打っている。なんと明るい子なんだろう。 今、「自然が残る最後の清流四万十河」と言う番組が流れている。 「お父さん、四万十河って行ったことある?」 「いやー、まだないけど、一度行きたいとは思うてんねン、退院したら一緒に行こうか?」と、笑顔で答える。 「せやなぁ、でも、ぼく、勉強遅れてるしな」 「退院してから次のこと、ゆっくり考えたらええねン」 「せやけど、みんなよりだいぶ遅れてるゥ」 「なにも、京大だけが人生と違う、よしゆきは、料理も得意やし、おいしいもン好きやし、今、流行のグルメやから、道場六三郎みたいな料理人になっても成功するンと違うかなぁ」 「うむーそれもええなぁ、でも、やっぱり京大に行きたいわぁ」  四万十河で獲れる川魚やえびなど悠々と流れる最後の清流四万十河が、テレビ画面いっぱいに流れている。番組を見ながら受験のことからよしゆきの頭を切り離そうと私は試みた。 次の治療までは二週間ある。その間は、咳止めを飲む程度で、これといって大きな治療はこの病院ではなかった。家族が交互に病室に入り看病をしていたが、よしゆきも比較的元気があり、効いているなぁという感じがしていた。本人もパソコンをしたり、テレビを見たり、本などもよく読んでいた。この間に家族の絆がより一層深まっていったようだった。東京に長く住んでいる長男は、よしゆきが大阪のお好み焼きを食べたいと言ったときなどは、それを、どこかで見つけてきては、持ってきていた。二つ違いの兄弟だから好みも良く似ていて、父親の分からない部分を良く支えてくれていた。母親は、慣れない土地をこまめに歩き、よしゆきの欲しがるようなものを見つけては買ってきていた。ちなみに私は、病院との交渉以外はなにもできなかった。 このころの東京はとても寒かった。窓を閉めきってもそこは古い病院、隙間風がやけに冷たい。風邪を引かせてはならない。 「肺炎になったらお仕舞や」脳にこびりついて離れないあの医師の苦言。 近くの電気屋さんで電気ストーブを買ってきて、病室に置いた。病院は以外と寛大だった。そして、いろんな相談にも乗ってくれた。その中でも、驚いたのは、先生からの一言だった。 「お父さん、どんな民間治療をしているの?」 「いろいろやってましたけど、大阪で止められましたから今は何もしてません」 「どうして! 可能性があるんだからやったほうがいいよ」 私は、びっくりした。 大阪の病院では、何を聞いてもデーターがない、知らない、と言われ、ほとんど無視され続けていたからである。 もっとも、びっくりしたのは、 「どうして、丸山ワクチン打たないの?」 「えっ! いやー、あのー、あんなの水って言われました」 「ええッー、ひどい事言うなぁ、治ってる人いっぱいいるよォ」 ショックだった。この先生は、可能性のあるものはやってみなさいと言う。実際に末期がん患者が、「キセキ」的に良くなった人を何人も見てらっしゃる。だから、否定はされない。 『えらい違いやなぁ』 同じ医師でも、こんなに違うのか? また、専属の薬剤師さんもよく部屋に来られて、薬の効き具合や、今の状態をカルテだけではなく、自分の目で確かめて処方を施してくれた。  先生に、相談してよいやら、こんなこと言ってよいやら、そんな不安や心配事は一切なかった。 私は今までの病院や医師は何だったのか? 『おまえらだって、いつ、ガンになるか分からないんだから、抗がん剤だけで治せッ、漢方薬も飲むなッ、民間療法もするなッ、玉川温泉にも行くなッ』大きな声で怒鳴りたい感情をおさえて説明を聞いていた。 一進一退だが、少しは効果があったのでは? と思う日々が続いていた。世間では、年越しの準備や師走の慌ただしさで騒がしかった。病室の窓を開けると人々の歩く靴音が、どこかせわしなく今年も押し詰まったなぁ、と冷たい風が私の頬を撫でていった。 行く年くる年が終わって、除夜の鐘が鳴った。 「お父さん、あけましておめでとう御座います」と、よしゆきが当番で寝泊りしている私に丁寧に新年の挨拶をしてくれた。 私もおめでとうと返礼をした。 「今年はええ年にせなアカンな、よしゆき、病気は気力や心の持ち方や」 すると、澄んだ眼差しで、「うん」と大きくうなずいてくれた。病院側からもささやかなお正月料理が出される。どことなく物悲しく、すこしばかりうれしい。そんな気持ちで箸をつける。あいかわらずよしゆきは病院の食事を食べない。まずいとか気に入らないとかじゃない。口には出さないが、患者になるのが嫌なのだ。何とか治ってみせる。治してやる、と言う気力でみなぎっていた。だから病院食は私か長男の一幸が食べた。よしゆきは母親の手料理を食べる。たぶんこれもこの子は親孝行と思ってやっているに違いない。近所に借りたウイークリーマンションの台所は狭い。不自由ながらそこで妻はよしゆきの好物を作って持ってくる。それが母親にとってもっとも励みのひとつになっていた。 窓の外の交通量が増えてきた。正月の静けさがおさまり、通常の生活が始まってきたのがわかる。そんな私たちのもとへ一本の電話が入った。大阪のお店から妻にである。 「もう商品が底をついて開店休業状態になっている。どうしましょう?」  懸命に主人たちのいないお店を守っている残った従業員たち。昨年末には、不安を感じた女性従業員がやめていっている。止めることも出来ずに、「長い間ごくろうさん」とねぎらいの言葉をかけてそのまま去っていってしまった。徐々に下がる売り上げ、がらんどうの店内。不安は募り、病室と大阪のお店とのやりとりは何度か続いた。 「あっそう、来るときから品物が少なかったから……チョット待ってぇ、あとでまた電話するから」 携帯電話を切って私の方を見ている。眼でうながされて廊下へ出た。 「どうしても行かなければお客さんに迷惑をかける。みんなも不安がっている」と、訴えるように言ってきた。 妻の商品でお客のついているところもある。まわりの店も何があったんだろうと不審がっているらしい。同業者やお客には、よしゆきのことは絶対に話すな、と命令してある。船場商人の心の中に渦巻くヤキモチ、「妬み」「恨み」「嫉み」「辛み」人が儲けたことを腹の底から喜ぶ者は少ない。 「上手いことやりよったんや」と折れ曲がった人生経験から出てくる言葉は素直じゃない。 心斎橋のお店、中央大通りぞいに買ったビル、連日のように顔を出していたテレビ番組。羨望の眼差しは刺すようにするどく、道で顔あわせると、 「さすがでんなぁ」 何がどうさすがなのか理解できない。揉み手をしながら不気味な商人笑いと意味不明な商人言葉。自分のところは暇なのに、「こんちくしょう」と腹の底が丸見えの陰口は、痛く感じていた。嫉妬心の塊りのような街の連中に、子供が病気などと言う必要などなく、平常通り仕事をしていなさいと言って東京へ我々は来ていた。それが、暇で不景気で人の噂話が飯より好きな輩。何かを嗅ぎ付けてきているらしい。想像力に飛んだ連中が、嘘の噂をでっち上げ尾ひれ背びれをつけて、もてあそんでしまうのを恐れていた私は、アメリカに留学している息子に会いに行って、住み心地が良いからそのまま居ついている、と言っておきなさいと口裏を合わさせておいた。 いくら従業員がしっかりしていても主人のいないお店には、人は寄り付かない。まして、衣料品の製作仕入は妻しか出来ない。空っぽの店内から悲鳴に近い訴えだった。 「行かなアカン、これ以上お客さんに迷惑はかけれない、よしゆきのことは心配だけど、今は以前よりマシに見えるし。お願いやから、出張に行かせてぇ」 廊下で立ち話をしていた私と妻はよしゆきの病室に戻った。 妻は、よしゆきの顔を優しくみつめながら、 「ねぇ、よしゆき、お母さんのお店ね、たくさん服売れて品切れなの、出張に行って服作ってこなければお客さんに迷惑がかかるから、ねぇ、三日だけ行ってくる。ねぇ」  察知をしたのか元々勘の良い子だったから。 「うん、いいよ、ゆっくり行ってきて、お店大事やから、せやけどお母さんのお店、よう売れんなぁ、さすがやな」と、笑顔で見送ってくれた。 妻は身近なものだけをもって、一旦大阪の店へ立ち寄り出張に出かけた。出張先のホテルに到着した妻は、さっそく国際電話をよしゆきにかけて来ていた。  受話器を耳にして、よしゆきは笑っている。何か楽しいことおもしろいことを妻独特のユウーモアーで笑わしているのだろう。母親に心配かけまいとよしゆきもやせ細ってきた手を持ち替えて話している。 「お母さん、心配いらんて、大丈夫や、いい服いっぱい作ってきてぇ」 よしゆきから受話器を渡された。電話を変わったとたん、受話器の向こうでは搾り出すような泣き声が私の鼓膜に響いた。 私は、もらい泣きをしてはならないと、わざと大きな声で、 「全然心配いりません。安心して仕事してきてチョウダイ」と、少しおどけるように言った。  妻のいない三日間、母親のいない三日間、長男も気を使って明大前の下宿から頻繁に池袋要町まで訪ねてきてくれる。そのたびに新しい本などを買っては、よしゆきに与えている。若い二人の会話にはついていけないが、私もよく読む中島らもの本の話しなどをしてケラケラと笑い、兄からもらった本をさっそく読みあさっている。私は時間を見ながら薬を与え、食事に気を使った。持ち帰りのお寿司に、どんぶりもの、よしゆきは病院のすぐかどに大阪の自宅と同じampmがあるのを知っている。いつどこでたべていたのか、コンビニのお弁当をよく私に申し訳なく頼んでくる。私は明るく楽しく過ごせるように振る舞っていたが、時間が経つにつれ徐々に会話に間が持たず、お互いテレビもおもしろくなく本も読み飽きてきた。部屋の中には白けムードが漂いどこかつまらない。よしゆきは眠り、私は暖かい部屋でうとうとしだした。 大阪の病院で二度目の抗がん治療の後、よしゆきは高熱を出し危険状態になった。医師たちは相談の上、無菌室に入れようとした。それは、突然の出来事だった。よく寝ているよしゆきを見て、私は大丈夫そうだから一旦帰ろうと自宅に戻った途端、携帯電話が鳴った。 「おとうさんすぐきて」 「どうした?」 「なんか身体が変やネン」 「看護婦さん呼びぃ」  力のない声ですぐ来てと言う訴えに不安を感じた私は、全速力で走って病院にもどった。見るとよしゆきは、額に脂汗をいっぱい浮かべ、全身は濡れるほど汗まみれで震えている。手をそっとおでこにあてると焼けるように熱い。 怒り口調で、 「何で看護婦さん呼べへんノン?」と、汗で濡れた身体を拭いてや りながらナースコールボタンを押した。 すると、熱で震えながら、 「なんか気が引けて」我慢していたと言うのだ。『この子は!」  何日か高熱でうなされぐっしょりと汗で身体が濡れる日々が続いた。毎日汗をふき取り、着替えさせ、『死なせてなるものか』と、懸命の看病を続けた。例の新米医師が体温を測ると四十二度もあった。その医師は思わず、「ヤバッ」と言った声が私に聞こえた。横目で私を見、体温計を振りながら、しどろもどろしながら病室を出て行った。不安が私を襲ってきた。いよいよか、このまま死んでしまうのか、魂を込めて口の中でマントラを唱え、よしゆきの身体を拭いてやる。熱を計ってやる。服を着替えさせてやる。それしか私には出来ない。 副作用でいろいろなことが想定された。 若い医師たちは、 「いろいろと原因は考えられる」 点滴のヘタクソな新米医師は、いっぱしに、 「肺炎が危険だから、肺炎になると持たないかもしれない」 「外部から来る人達は手を消毒しマスクをして入室するように」と、注意された。 また、原因追求の検査がよしゆきを痛めつけた。 『こんなに苦しんでいるのに』  無菌室に入れて治療をする相談がされた。そうすればそばについてやることも出来ない。覚悟を迫られる視線を医師たちから感じた。  幸い、個室だから部屋に除菌の機械をおいて無菌室と同じようにできる説明を受け、青い光を出す機械を設置し、そばで看病できるようになった。抗がん治療をしてからよしゆきの体力はガタッとおち、やせ細ってきたように思う。徐々にがん細胞が大きくなってきてやせ細ったのではない気がする。元気な細胞までもやっつける抗がん剤が人間をぼろぼろにしてしまう気がする。だってあれだけ元気だったよしゆきが、抗がん治療の始まった日からアレルギーやら嘔吐、脱毛、倦怠感など残酷すぎる。 「人より副作用がひどい方ですね」と、一人の医師から言われたことがる。 『それがどうした、だから入院してるんだろう』と、腹の中で思った私は、言い訳ばかりの病院に嫌気が差していた。そんなことが、妻のいない静まった部屋の中で、寝ることが仕事になってきてしまったよしゆきの寝顔をみながらぼんやりと思い出していた。 陽気に明るく振舞うことの出来る妻が一人いないだけで、霞がかかったように部屋の中が暗い。 「お母さんいつ帰って来るの?」 寝床で思わずよしゆきが訊ねてきた。 まだ、二日しか経っていないのに。 普段は四泊五日で行く出張も、不安と心配が入り混じる中、思い切った仕入も製作も出来なかったのか、三日後、成田着で妻が帰ってきた。極度の方向音痴なのに、成田から池袋までスーと来れたらしい。母親の神通力とでも言うのか信じられないスピードで戻ってきた。 すでに夜十時を回っている。 「ただ今ーよしゆきぃ」と、陽気で明るい声を高らかに満面の笑顔で帰ってきた。 「あー、お母さん」と、久しぶりに再会する親子のような軽い驚きの喚声をあげている。 私もどことなく嬉しい。 「お帰りぃ、えらい早かったな、よう迷子にならンと帰ってこれたな」と、私独特のねぎらい言葉をおくった。 「なんか、作ってぇ」と、普段あまえたところを見せないよしゆきが母親を見て眼を輝かせる。 この三日間、東京独特の味付けの濃い食べ物ばかりで、飽き飽きしていたからだ。 深夜近くになっている。料理の材料も乏しい。 妻は少し考えて、やさしくよしゆきを見つめた。 「サラダとか、目玉焼き作ってあげようか?」 すると、よしゆきは細くなった自分の足や腰の辺りをさわりながら少し眼を伏せ加減に、申し訳なさそうに言った。 「最近やせてきたら、カルシュウムの入った食べ物がいい」 自分でもやせてきたのが気になっていたのか? 入院当初から比べるとスマートだったもともとの体が、より細くスマートと言う表現が出来ないほどの身体に変わっていた。 泣き虫の妻はむせ返るのを懸命に抑えて、笑顔を漂わせ、「うん、うん」と、頷き、腹のそこから少年のような返事をした。 「はーい、分かりましたぁ」 甘えてくれるのが嬉しいらしく、疲れも見せずに喜んで部屋を出て行こうとする。 私はその背中を見て深夜の病院に響くような大きな声を出した。 「おーい、マンションから材料持ってきて、ここの炊事場で作れっ」 「いいの? ここで作っても」 「時間も遅いから……怒られたら、俺が言うたるぅ」 深夜の病院で料理作り、良い香りが充満して、病院中に美味しさが漂う。私もお腹がぐーと鳴った。 「出来たよう、ふうーふーして食べなさい」 「うまそうやなぁ、うむーうむーおいしいわー、お母さん」と、喜びが満面に浮かんでる。三日も食べていなかったような食欲! 母親にむしゃぶりつくような食べ方だ。 「おしいわ、おいしいわ」  褒められすぎて照れたのか、 「あったりまえヤー、わたしはなッ、大阪の道場六三郎ヤッ」 「あっはっはっは、道場六三郎と言うよりも、五三郎ぐらいヤ、ハッハッハー」と、笑わしてくれるよしゆき。 センター試験が近かづいていた。自分だけ受けれない苛立ちがあったのだろう。決して口には出さなかったが、目先にぶら下がっているカレンダーを見つめる眼で分かる。せめて受験票だけでも、と私は窓口になっている大学の受付に電話をしてみた。 「あのう、すいませんけど、うちの子、今、病気で東京にいるんですけど……はい……ですから、東京のどこかで受けることできませんか?……あのう、病院で受けることはできないでしょうか?……チョット近所の大学と言われても、今歩くの大変なんですが……はい、はい……とにかく、東京で受けれる受験票を送ってくださいませんか……大阪までは、とても取りには行けない状態なんですが……」 疑い深い質問を頭から浴びせられ、苛立つ気持ちを抑えて何とかお願いしてみる。ほんとうか、うそか? 先方からよしゆきの枕もとにある電話がけたたましく鳴った。 交換手が、「大阪のセンター試験のだれそれさんからです」 私は一瞬、カッとなった。 「もしもし、何で病室に掛けてくるんですか? 携帯の番号教えたでしょう」 「確認のためにお部屋にかけました」 じゃ、あれだけ説明したのに信じてもらえなかった! 内緒で無理を承知で病室の外から電話しているのに、真面目で律儀で勤勉なお方ですなぁ、あんたわッ。と、半ばあきれ返った。 「電話は子供の頭の上にあるんです。病気なんですよ。あれだけ説明したでしょう」 融通の効かない担当者と何度かやりとりがあり受験票をやっとの思いで手に入れた。 私は、届いた受験票をベッドのテーブルの上に置いた。 「お父さん、してくれたン」嬉しそうに明るい声で喜びを表している。 「おおう、お父さんに不可能と言う文字はない」  よしゆきは噛み締めるように喜びを表してくれた。 しかし、これは以前に受け取っていた受験申込書の書類だった。疑うことを知らないよしゆきは、受験票が来たと最後まで信じてくれた。 先方はそれほど親切ではなかった。まして、大阪までだれがどうして取りにいけると言うのか、余命一ヶ月をとっくに過ぎているのに。私が病室内で演じた演技、「じゃ、送ってください」この言葉が、ほんとうに受験票を送ってきたと思わしたのである。 結果的に「元気に成ってから受けるわ」「今年は諦める」歩行もよろける自分の身体全体を見て「無理や」何とも眼に見えない糸が切れるかのような発言だった。 長男一幸が池袋の病院の周りの景色をバカチョンカメラで撮ってきてくれた。ヘタクソな撮影で景色はよくわからないけれど、よしゆきは熱心に眺めている。 「もっと、いろんなとこ、撮って来て」 「なんだったら、車椅子に乗って外に出て見るか?」と、私が聞くと、「アカン、今は危険や」と、意味深なことを言った。 さらに、「元気に成ったらいつでも見れる」と、相変わらず前向きな強気のセリフ。  このころは、まだまだ元気だった。 一月の終わり頃、トイレに入ったよしゆきがひどく咳き込んでいる。 ドアー越しに耳を当てながら叫んでみた。 「大丈夫かあー」 「胸痛い! 咳したら胸が痛いー!」割れた声で呻くように言っている。 脂汗を額にいっぱい浮かべて、胸を右手で押さえながら出てきた。よろける身体を支えてやりながらベッドに寝かせて、走って先生に告げに行った。  焦りが私の表情に浮かんでいるのが自分でも分かる。 「先生、咳をしたら胸が痛いと言ってます」  先生はうつむきながら沈黙を破ろうとする。緊張した空気がピリリと動いた。 「このあいだ、新横浜に治療に行ったでしょう、その時、先方の先生ともお話したんだが、薬の当たったところは良く効いているんだが、若いから成長が早くて……」 そんなっ、先生そんなこと。 「どう言うことですか?」 お互い顔を見合わせたまま沈黙が続く。唾をごくりと飲み込んで私は、「転移ですか?」恐るおそる訊ねてみた。  先生は伏目がちに、 「うむー、そうなんだよ」まるで、予期していたような口ぶり。 若いから(ガン)成長が早い! 次の日、薬剤師さんが病室へ来られた。 明るい笑顔でよしゆきに、 「大丈夫だからね、何でも言ってよ」と、あいさつを入れニコニコと陽気に振舞いながら眼で私を廊下へ誘った。 「あのさ、そろそろモルヒネを使った方が本人のためには、良いと思うんだけど」 「モルヒネッ!」 背中に冷たい電流が流れた。 古いタイプの私は、モルヒネという言葉の響きに恐れを抱いた。驚きと不安が一瞬にして全身に広がった。  床づれをおこしている。お尻の皮がむけて痛々しく、ボルタリンの塗り薬を塗ってやると、とても気持ちよさそうだ。 「どうして、もっと早く言わないの」すこし怒り口調で言ってしまった。 我慢して、がまんして親に迷惑をこの場に及んでまでも掛けまいとしている。それとも胸の病に比べれば、「こんなモノ」と、思っているのかもしれない。やせこけて、肉のそぎ落ちたお尻に薬を塗りながら、目頭に浮き上がる涙が声をも震えさせる。 「辛抱せんと何でも言うて、親子やろう」 この三日後、咳が止まらない状態が続いた。 「息苦しいィ」滅多に見せない強気の子が涙を流している。 息をしても大きく吸い込んでも水面に浮かんだ魚のように、口をパクパクさせている。酸素が足りないらしく、苦しさを必死でこらえている。横で、妻も我が子を右腕で抱えて目頭を無言で濡らしている。 外から戻った私は、苦しみを堪えているよしゆきを見た。 「どうしたッ?」 「よしゆきが、息苦しいって」 息苦しいよしゆきに代わって説明しようとした妻の眼から大粒のものが滴り落ちだした。泣き声は出さずに、涙だけポトポト落としている。 よしゆきの眼からは、泣くことをこらえながらも熱く光るモノが滲み出していた。 ベッドにひざまづいた私は、優しく静かに声をかけた。 「どうした?」 よしゆきは、すべての不安と不満を噛み殺すように、腹の奥底から苦渋に満ちた声で、再び言った。 「はやく、元気に成りたい!」と。 私は、思わず声と涙が一緒に出そうになった。必死にこらえて、 「よしゆき、心配するなッ、お父さんが、どんなことがあっても治してやる。ただ、お父さんがアホやから、知識がないから時間がかかってんネン、ごめんな、ごめんなぁー」 頭を下げて、よしゆきの左手をぎゅっと握り締めた。 すると、よしゆきは右手を横に振りながら、苦しい息で、 「そんなことない」と、澄んだ優しい眼を見せてくれた。 この日から酸素吸入が始まった。 口に透明のマスクのようなモノがあてがわれた。 私は、そばで弟の姿をジッと見つめている長男に低い声で言った。 「お兄ちゃん、よく見ときなさい。必死に、がんばってるやろう」 長男は、心の底から静かに語り始めた。 「弟やけど、尊敬するわ、俺には真似でけへン、オレ、あったら、気が狂うて、窓から飛び降りるかも知れん」 つかつかっと弟のそばへよっていき、はっきりした口調で、 「よしゆき、偉いぞ、お兄ちゃんは、お前みたいなええ弟持って幸せヤ、がんばれよ、まけるなよォーッ」 悲しみ以上に励ましあう息子たちの姿に、私は感動を覚えた。 今「キセキ」の灯が消えようとしている。なにくそ、消して成るものか。  胸が痛いと訴える日が多くなってきた。咳や熱もまたぶり返してきた。 入院した時に言われた、「治療しても余命六ヶ月」それが、ずーっと気になっていた私は、その日を超えたとき、「勝った」と握りこぶしに力が入った。 『よしゆき、よくがんばったなぁ』 心の中で褒めてやった。 何かしら妙な喜びが沸きあがってきた。 この二月十二日が越えられるか毎日どれだけ悩み苦しんだことか、去年の八月に入院したときは、 「エッ! あとたったの六ヶ月!」 一日一日と過ぎ去るのが、どれだけ怖く不安で辛くて眠れぬ日が幾日あったことか、時の流れは早く我が子の死が刻一刻と近づきつつ、情け無用の時計の針は回転しつづけた。   その死の宣告日を乗り越えることが出来た。 『よう、生きたなぁよしゆき!』  交替で、ウイークリーマンションに戻った私は、苦しさを紛らすために、近所の酒屋で買ったお酒を浴びるように飲んだ。 そして、泣いて、泣いて、大声で喚いた。 「よしゆきが可哀想だ、本当に死ぬのかッ?」 ぼやき、嘆き、世の儚さを恨んだ。 酔うことはなく、また眠れることもなく、愚痴るばかり。とめどなくあふれる涙、嗚咽に苦しむ獣のような号泣を繰り返す夜を明かした。  トイレに行くのが辛くなってきたみたいだ。 息を「ハーハー」しながらとても苦しそうだ。 「先生、身体がえらい浮腫んでますねンけど?」 「ガン細胞が大きくなって、大静脈を圧迫しているんだろう」 顔は風船のようにふくらみ、手などはグローブのように腫れている。食事の時、箸を持つ指の太さをギョロつく眼でジッと見ている。何か言うかと息を呑んで見つめる私たちの顔を見ても、よしゆきは何も言わない。見ているこちらの方が怖くなってくる。 精神力は驚くばかりだ。 「お父さん、パソコンとって」 「パソコンするの! よっしゃ、よっしゃ、ここ置くわな」 すごーい気力だ、笑顔でパソコンを打っている。 薬のおかげもあろうが、この子の性格もさることながら、浮腫みについては何の質問もしてこない。 勿論、副作用とは言ってあるが……。 「コンコン」と、ノックする音で「ハイ」と言う声と同時にドアーが開いた。  ズック靴を履いた女性が白衣を着て、開けたドアーの隙間から顔を覗かせて言った。 「癌研からきました」 「何ッ」 ビックリした私は、入ってきたその女医の腕を持ち廊下へつれて出た。 「ガンって言ったらだめじゃないかッ」  私の勢いに恐縮した女学生のような女医は、よしゆきの身体を指で押したり、呼吸を聞いてみたり、いろいろやっている。 「うむ?」  胸のレントゲンも撮りに来ている。 『いつもと違う』  利尿剤を飲んでからは、身体の浮腫みも見るみる取れてきていた。元のすっかりやせてしまった身体に戻っている。 それは、昔、ニュースで見た、ガンジーの体に似ていた。  私は、医師とも相談をして、密かに大阪へ連れて帰ろうと行動していた。 「ヘリコプターって何の話?」 突然、よしゆきが背もたれにぐったり、とろっとしたモルヒネの効いた眼で声を投げかけてきた。 ビックリした。 胸にモルヒネの入った風船状の装置を取り付け、咳が出るのを恐れて身体を海老状態に保っている。常時、血液中にモルヒネが入り、ゆったりとした半眠り状態になっているから、私は安心していたのに。 狼狽して言葉が詰まり顔色が変わるのが自分でも分かる。 「えッ、いやー、あのう……大阪帰る話や」 「ヘリコプターって、そんなン、お金いっぱいかかるやンか?」 「お金は、稼いだら仕舞いや」 「もったいない、よしゆきのためにもういっぱいお金使ってるやン……新幹線とか車でええ、寝てたら大丈夫や」 この場に及んでまでも、この子は! 「もう新横浜の病院に、行かんでもいいの?」  恐れていた質問が飛んでくる。 「う、うん、大阪でも治療できるようになったンヤ、せやから帰ろうと思うてなぁ……」 私は、作り笑顔で必死に弁解(ウソ)をついた。 「金の心配せんでもええでぇ」 そこまで言い終わったとき妻に廊下へ連れ出された。 「あんたッ、声大きいネン!」 虎のような眼で一喝された。 モルヒネで寝ているものと思いこんでいた私は、廊下で携帯をつかうと壁に響いて他の病室の患者さんたちに迷惑がかかるのを気使って、病室の片隅でヘリコプター会社と交渉していたのである。 さらに、精神状態もおかしくなっていたのか? 『あッ、そうや、自衛隊のヘリコプター無理かな?』 途轍もないことを思いついた。 『たしか、学校の理事長、国会議員あったな!』 すぐに元担任の先生に電話を入れた。なりふり構ってはいられない。 一刻も早くッ! 「……教頭先生も学校として出来る限りのことはするとおっしゃってくださったし……」 どうせ(死ぬ)なら大阪へ連れて帰ろうと半狂乱状態だった。 「キセキ」を信じて頑張っているが、目の前にある子供の姿はあまりにも無残である。 「国家のものですから、いくら国会議員でも動かせるかどうかは……はい、はい、あのう、お父さん、よしゆき君から、最近メールが来たんですけど、元気でやってる、もうすぐ退院できるって言うてたから、あーよかったと、安心してたんですが……」 「そういう子ですわ、私もよくなってるからとは言ってありますけど、それは、あくまで薬のおかで……」 そこまで言って、こみあげてくる胸の唸りで声が詰まってしまった。 「ええー、そうなんですか!」 先生も鼻水を啜り上げながら、がらがら声に声が濁っていた。 「あと、二週間もつかどうか、と言われてますッー!」  二月十五日の昼食のとき、母親の手料理のひとつ、母さんサラダにドレッシングをたっぷりとかけて食べているとき、よしゆきが突然左手で胸をおさえた。 「心臓がドキドキする」心臓の鼓動が激しく食事がまともに出来ない。私が左手をよしゆきの心臓に当てるとズキンズキンと突き上げるような手の感触。恐怖心が手から全身に伝達されていき身震いする。 心臓が走ってる状態になり、波打っている。ナースコールで看護婦を呼び、急いで心電図を取り付ける。 「鼓動が一分間に百六十もある」 若い見習いのような看護婦が驚いている。 大きな身体をのっしのっしと歩いてくる足音がする。先生がこの病室に向かってきている証拠だ。ノックをされてすぐ眼で廊下へ私を誘った。 「心臓を強化する薬を打った。もうそろそろ、モルヒネの強いのを入れてあげたほうが本人のためには楽だよ。いよいよのところまで来ている。キセキは起こるかも知れないが、本人は苦しまないようにしてあげること、心不全の起こる可能性だってあるんだから」  入院してはじめて強い口調ではっきりと言われた。 それでもよしゆきは頑張っている。 息苦しいために腰は曲げた海老状態、寝返り一つ打てない、お尻の皮は剥けてさぞかし痛かろうに、愚痴ひとつこぼさない。私は我が子ながら神々しいものを感じた。 先生は、 「連れて帰るのだったら、今しかない」  私は迷った。どうしていいか分からない。答えが出てこない。誰か助けて欲しい。 妻は、 「もうアカンのン? もう望みないのン? 最後の最後まで諦めたらアカン。このままでもええ、寝たままでもええ、動いていてくれたら、あと十年、五年だけでも」 「ぐぅぁ〜」と、悲しみをこらえるように声を絞りながら、「ウチは諦めヘン」 大粒の涙が眼元いっぱいにあふれ出してきている。 なんと強い女だろう、この気丈夫さはどこから来るのか、よしゆきとそっくりではないか。 「ここの先生やさしいし、思いやりもあるからここがいい、死ぬときは何処で死んでも一緒やっ」自ら言い聞かせるように、「まだまだいける。まだまだいける」と、逆に私を励ましてくれた。 「よっしゃ、わかった。ここに居とこ、最後の最後までがんばろう」   もう、声もあまり出せない、食欲もあまりない、手を上げて私たちに合図をくれる。それを見逃すことのないように、全神経を集中させて私たちは見つめている。 自らの力だけでは、動けなくなった。今では、ベッドの上で大便も小便もしなければならない。 「お母さんごめんな、臭いやろう、ごめんな臭いやろう」かすかな声を上げて言う。 私は、唇を噛み締めて、まだ冷たい風が入る窓をそろっと開ける。 母親は、慈悲に満ちた眼差しで優しく微笑む。 「ちっとも臭くないよ、よしゆきが赤ちゃんのとき思い出すわ」 何日ぶりか、溜まっていた便を浣腸で出させた。  自分のお尻や腿を撫でるように触っている。痩せてきたのが益々気になるらしい。ここ数日殆ど食べれないでいる。ときどき思い出したように、さっと手を上げる。 「どうした?」と、訊ねると、「牛乳を飲む」と言う。出ない力を振り絞りながらストローで「チューチュー」元気を出そうと必死で飲む。  テーブルを叩いて「息苦しい」と苛立っている。 「先生、もし、ご自分のお子さんだったらどうなさいますか?」 「僕だって、どうして良いか、わかんないよ」目を真っ赤にして言われた。 私は正直な方だと思った。なすすべがない。   三月十一日先生に呼ばれる。レントゲン写真をみながら、 「右の肺はペシャンコ、左の肺も半分しか活動していない。若いし体力があるから持っている。年寄りだったらとても持たない。お宅のお子さんすごい生命力だよ」 私は、質問も出来ず、恐怖の言葉が来るのかと怯えながらうなずくばかり。 「僕もびっくりしている。緩和治療をして家族の絆を持ってもらうためにここまで頑張ってきた。家族全員がこちらへ来て看病をする姿には感動したよ。お父さんは人の出来ないことをしている。病院中の評判になっているよ。他の患者なんか見舞いにも来ない、みんな見捨てられてるんだよ、可哀想に」 私は、いよいよのときがきていると察知はしていた。が、怖くて……何もいえない。 先生の潤んだ眼に涙が溜まる。堪えても、こらえても。そのひと筋が白衣に落ちた。 「最後の注射は、僕がしてあげるよ」 「……どうぞよろしくお願いいたします!」 私は死の切符を切ってしまった。 相談室から戻った私の眼が真っ赤なのを見た妻が、 「どうした? どうしたの? もうアカンのぉぉぉ?」 救いを求める瞳が私を悩ませる。 私は、すべての悲しみを噛み殺すように、断腸のおもいで、「首を縦に振った」 ほぼ無意識のよしゆきは半眠り状態。 横で私たちの様子を見ていた長男は、あまりのショックに酸欠に陥り、積み木が崩れるように倒れ、気を失ってしまった。 「だいじょうぶか」 慌てて看護婦と先生が走ってきた。 「お兄ちゃんしっかりして」  私は一瞬二人とも死んでしまうのか、と鳥肌が立ち全身に悪寒がはしった。 「お兄ちゃん、お兄ちゃんがしっかりせな、お母さんの面倒だれが見るの? しっかりしてぇ」 先生があたりをさがしている。「何か袋はない?」 これなんか、と手渡した紙袋を補助ベッドの上に寝かせた長男の口に当てた。  しばらくして、私たちの励ましの声が届いたのか、「うん、うん」と気がついてくれた。  極度の悲しみで酸欠状態になって失神したのだと先生が教えてくれた。 「もう、だいじょうぶ、うん、だいじょうぶ」 長男がはっきり意識を取り戻した。  上から長男の顔を見つめていた私は、 「お母さん守ってあげて」 「分かった。分かったから」と、立ち上がった。 私は、西新井のお大師さんの身代わり地蔵のお守りをよしゆきに持たせてお祈りをした。清め塩をよしゆきの身体に撒いて、死神を追い払い(何卒この私の命とこの身を捧げます。よってこの子を助けたまえ)と、一心不乱に合掌し、手が折れんばかりに唱えた。 すると!  よしゆきも子供のときに教えたマントラ(真言)を一生懸命に口の中で唱えている。 「オンアミリタテイゼンカラウン、オンアミリタテイゼイカラウン」 夜八時、ベテランの看護婦を伴って先生が部屋に入ってこられた。私たちに会釈をされて、モルヒネで半眠りのよしゆきの顔をしばし見つめたのち、足の甲に刺された点滴針の上部についているビニールの袋を左手にもち、注射器で最後の薬を注入された。薬がよく混ざり合うようにビニール袋を揉む。おもむろに私たちの方を見て一言言われた。 「全然苦しまないから」  先生方が病室を出て行った後、よしゆきは、ゆっくりと深い眠りについていった。 その時、突然、 「もう寝るわ、おやすみ。ヨシユキ、大丈夫やから」と、かすかに笑って言った。 私たちは、お互い顔を見合わせて驚いた。  「よしゆきが喋った!」  それもはっきりした声で! 「おやすみ、ええ夢見てなぁ……ゆっくりおやすみ」と、私が言うと、軽く「うむ、うむ」と、うなずいて無邪気な笑顔を浮かべた。 これが最後の会話となり、よしゆき最後の言葉となった。 翌朝、呼吸がゆっくりとなり、午後十二時十五分大きく最後の一息を吐いて二度と吸うことはなかった。 「お父さん、よしゆき、息してないッ」と、長男が叫んだ。 「心電図が止まってるッ」看護婦がノックもなく飛び込んできた。 「よしッー、よしーッ、よしゆきッー」 「あッーぐゥー嗚呼―淋しいなぁ淋しいなぁ」母親が泣き崩れた。 「よしゆき、もう、苦しまんでもええでぇ、長いこと、ようがんばったなぁ、偉かったよぉ、立派あったよぉ」私は我が子を褒め称えた。 「お前は俺の誇りヤ、ええ弟持って俺は幸せヤッー」長男が膝から折れた。 「うちの家に生まれてくれてありがとう、十九年間楽しかったよ、嬉しかったよ、面白かったよ、よう生きたなぁ、偉かったぞッー、嗚呼―」と、その場に全員が泣き伏せた。 般若心経を一心に唱えていた。 すると、壁の向こうから十八年前に亡くなった父親が現れた。 “!心配するな!” よしゆきの手をとり笑顔で天空へと消えていく。 『嗚呼、親父!』 何故かよしゆきは、昔、高野山の宿坊に行った時の年齢で、その時と同じアビレックスの皮ジャンと帽子をかぶっていた。 『嗚呼、善幸(よしゆき)!』 “!バイバイ!”  上空から、よしゆきも微笑んで手を振っている。 私は呆然とそれを見送っていた。 『オヤジ、よしゆき頼むデェ』 ウイークリーマンションに置いてある荷物を整理しに行っていた長男と妻が大阪へ帰る用意が出来たと病室へ戻ってきた。 「今な、お爺ちゃんが来て、よしゆき連れて行ったで」 弟の顔をジッと見つめていた長男が、 「笑ってるゥ、お父さんよしゆき、笑ってるゥ」 この世の苦痛から開放されたのか、本当にすがすがしい顔で笑っている。 余命一ヶ月と言われて東京に来てから実に三ヶ月も生きてくれた。 院長先生はじめ全看護婦、薬剤師の皆さんが合掌をして見送ってくださった。 感謝の気持ちを込めて、よしゆきを乗せた車の前に立ち、私は心よりお礼を述べた。 「ありがとうございました、長いこと本当にお世話になりました」 深々と頭を下げてよしゆきと共に池袋の病院を後にした。 入院して、丁度七ヶ月。よしゆきの闘病生活は終わり、私たちの看病生活も終わった。長男と妻は新幹線で帰り、私は大阪の公益社から手配された車に二人の運転手と共に同乗した。よしゆきは私のとなりで静かに横になっている。 東名高速から名神高速に入り大阪阪神高速へとよしゆきの眠る寝台車は走った。 「よしゆき、もうすぐ大阪やで、元気な姿で帰ってこれンでごめんな、ごめんな」 私は、横で眠る息子に語りかける。 道頓堀ランプを過ぎると通天閣の灯が見えてきた。 もうすぐ我が家だ。 「よしゆき、通天閣ヤ、もうすぐ家やで、帰りたかったやろう」 八時間かけて深夜二時に無言の帰宅。 従兄弟たちのすすり泣く声があちらこちらに聞こえる。 「良い子ほど、早く死ぬ」 よしゆきの祖母が、可愛い孫の死を眼いっぱいに慰めの言葉をかけている。 部屋の主の死をいかにも悲しむかのように、蛍光灯もついたり消えたりと神秘的な現象が起きている。 看護婦をしている私の妹が、よしゆきの顔を繁々と見つめながら、 「ご苦労さん、ようがんばったね、優しい顔してるわ、健やかなすがすがしい顔してるわ、これは、感謝してる顔や」と、言った。 たった十九歳で死んで『感謝するやろうか?』と、思ったが、妹は続けた 「私も看護婦の端くれや」と、前置きして、 「人間の死に方にはいろいろある。苦しんで死んだ人の顔、自殺で死んだ人の顔、感謝して死んだ人の顔、それぞれ顔が違う」  私たちは専門職の妹の話に耳を傾けた。 「よしゆきは、本当に感謝してる顔や、こんな顔作ってもでけヘン、なんぼ医学が発達しててもこんな顔は作られヘン、こんなに笑顔で、安らかで赤みが差して、温もりもあり、弾力もある。今にも起きてきそうなこんな顔、始めて見た」 経験から出た言葉だろうが、たとえ、なぐさめでも嬉しかった。 同世代の従兄弟達がよしゆきの横に座り、去年のお盆にお婆ちゃんの家で一緒に楽しく過ごした時は元気だったのに、と命のはかなさを嘆くかのように目頭を拭っている。   翌日は仏滅でお別れ会はあさってになった。 二日間儲けたと妻は一緒に添い寝をしている。 十九年間の我が子の思い出が走馬灯のように巡ってきていることだろう。 お別れ会場に同級生たちや予備校の仲間たちが信じられないと言う顔でぞくぞく集まりだした。 誰かが、「悪い冗談かと思ってきたのに」と、しくしくと泣いている。少ない小遣いの中から香典を包んで出す者、署名をして、寄せ書きに楽しかった思い出、慰めの言葉を書き綴る友人たち。春休みに入っていたので地方の大学に通っている友達も訃報を聞いて駆けつけていた。 その中で、二人の女の子が崩れんばかりに抱き合って泣いている。 「誰や? いったい?」 私が言ったところ、 「あっ、千晴ちゃん!」 妻が席を立ってそばへ駆け寄って行った。 「千晴ちゃん! 誰?」 私はきょとんとした。 「よしゆきの彼女」……「彼女ッ!」 私はびっくりした。 二人は、より沿いながら、眼を真っ赤に腫らしてなよなよと泣き崩れている。 妻が駆けつけて二人のそばへ行った途端、同時に声が、「嗚呼」と館内に響いた。金属を擦る悲痛をともなったか細い悲鳴のような声が、参列者の悲しみを誘う。 彼女が居たなんて! 京都R大学に通う賢そうな目もとがパッチリした中々の美人だ。もう一人は、ニューヨークに留学している真由ちゃん、弁護士の娘さんでよしゆきの小学校の同級生だそうだ。二人を引き合わせた張本人だとあとで聞かされた。 私は、狐に包まれたような気分だった。 お見舞いに誰か来てもらおうかと言っても、元気になったらいつでも会える。こんな姿で会うのはイヤヤ、と入院して間もなくしてからは友達の面会も拒み続けた。周囲に内緒にしていた私も、東京へ行くことが決まってから、従兄弟たちを病室へ呼び、私なりの覚悟の上での最後の面会をさせた。よしゆきと同世代の従兄弟たちは何故か言葉はなかった。話し出せば涙がこぼれそうになるのをこらえてのことだろう。むしろよしゆきが気を使って声を掛けていたほどだ。中高校の先生方も見舞いに来てくれたときも悲壮感が顔に現れ、よしゆきはそれを察知していた。横で見ていた私は痛いほど感じることが出来た。東京の病院でいよいよと言うとき、「だれか見舞いに呼んであげようか」と、聞いたときも、「元気に成ってから会いたい」と、頑固に拒んだ。心のどこかでよしゆきは、まさか死ぬなんて、と認めたくなかったのかもしれない。悟っていたとは思うが何も悪いことをしていない自分が死ぬ? 親も兄もこんなに一生懸命がんばっているのに? だからかならず元気になるいや成って見せると病院食は口にせず母親のつくったものを栄養まで考えてもりもりと食べていた。最高の治療を施しているから、元気にしてくれる。かならず元気に成ってやる。だからそのときに全員を四万十河に招待して、みんなでバーベキューをしようってこの子はメールを打ったんだ。でも、京大にすべり親に申し訳なく、丸坊主にして勉強に励んでいた。彼女の千晴ちゃんは大学に受かり、自分は浪人。よしゆきの性格から合格するまでは、会うまい、連絡するまい、とこの美人で賢そうな子までも面会をこばんでいたのか、よしゆきの心のなかで、大学受験に失敗したことは、親に申し訳なく、十九歳の若さで死んで行く逆縁も、私たちに申し訳なく思っていたはずだ。だから最後に、「よしゆき大丈夫やから」と最後の最後まで親に心配をかけまいとしたあの言葉が、ガンに侵されたノドから出てきたのであろう。でも、私がこの千春ちゃんの存在を前もって知っていたならば……悔やんでももう遅い。そんなことが私の脳裏を横切っていった。今始めて見るこの彼女の姿を見て、私は何故か嬉しくなってきた。 あのよしゆきに彼女が居たとは! 妻が、よしゆきの顔を見せている。 「優しい顔ですねぇ」……「安らかな顔してるゥ」……「よしゆき君どうして死んだの」……「どうして連絡してくれなかったの……」と、止め処もなくこぼれ落ちる大粒の涙をハンカチで押さええながら二人は見つめている。 入院していることは知っていたが、心配をかけまいと一度も連絡をくれなかったそうだ。二人ともよしゆき君らしいと言っている。 千晴ちゃんの寄せ書きに、 「京大に入ったら、オートバイの免許を取る。そして後ろに載せてドライブするって約束は、どうなったの?」と、達筆な字で書かれていた。 また、いつも図書館で一緒に千晴ちゃんと勉強をしていたとか。学校同士でも美男美女でウワサの的だったとか。真由ちゃんが教えてくれた。  福園君、山中君、飛田君の連名で花が届いている。 「これはどちらさんから?」と、聞いても誰も知らない。 後で分かったことだが、よしゆきが組んでいたバンドのメンバーで同級生と言う。 「バンド! よしゆきが」 山中君から渡されたビデオには高校二年生の時に開いたライブコンサートの模様が写っている。それは、まるでビートルズのようでもあり、ローリングストーンズのようでもあった。よしゆきはリードギターとボーカルで、歌って踊っている。近郊の学生達が集まって開催していたらしい。私はビックリした。小学生の時から塾に通い勉強ばかりして、その結果死んでしまったように思っていたからだ。 元担任の先生から、 「お父さん、よしゆき君は多趣味、多芸、多才で、新聞を発行したりバンドを作ったり、校門の前で女の子が待っていたり。忙しい子でしたよ。決して勉強だけのひ弱な子ではありませんでした」と、思い出話を聞かせてくれた。  ある友達は、毎日新しい物まねと言って披露してくれたとか、新ネタといって笑い話をみんなの前でしてくれたと言う。 私は、ますます嬉しくなってきた。 小学校、中、高校を通じての同級生、予備校、そして、転校するまで四年間在学していた小学校当時の同級生たち、総勢六〇〇人を越す友達がよしゆき最後のお別れに参列してくれた。中には我が子の同級生が亡くなったと、父兄までが来てくれている。 自衛隊のヘリコプターを頼んだ学校関係者はもちろん、予備校、各小、中、高校の諸先生、生徒たちが次々と献花をして、明るくて人気者だったよしゆきとの最後の別れを惜しんでいる。 会場にはよしゆきが好きだったミスチルの歌がいつ録音したのかよしゆき本人の声で流されている。友人たちの粋な計らいだろう。モニターテレビの画面からは、幼かったときから、頭を剃り上げたときまでのよしゆき、長男、私と妻たちの過ぎ去った日々のビデオが編集されて、据えつけられた幾台かのテレビ画面から見ることが出来る。  会場は悲しみと泣き声でお礼の言葉を述べる私の声もかすれていた。 祭壇の上の方でよしゆきの写真だけが笑っている。 「人生は友達と想い出や」 これは、よしゆきの口癖である。友達思いのよしゆきらしい言葉だ。その通りの人生を歩み、短くとも中身の濃い充実した人生。 よしゆきの口癖のとおり、「人生は友達と想い出だろう」 この世での自らの役割を終えて、多くの友達と多くの想い出を胸一杯に持って、色の世界から空の世界へと旅立って行く。 「御出棺」 嗚咽と、すすり泣きの大合唱と共に、よしゆきを乗せた霊柩車からクラクションが大きく鳴り響いた。 『嗚呼、青春の花一厘、ここに散った』 私の心の中を赤い花びらがひらひらと舞い、一粒の種が地面に落ちた。いつか必ずその種は地上に再び花を咲かすだろ。おまえの残した想い出は多くの友達の心の中で、永遠に生き続けるだろう。 魂が抜けたようにボケーとした日々、一人の人間がいなくなっただけで部屋が淋しい家が冷たい。 今は仕事もない。やる気もない。何もかも手につかない。 同業者の倒産もあいも変わらず続いている。ヒョットして、よしゆきは、私を救おうとして死んだのか? あのまま事業を続けていれば、間違いなく倒産したかもしれない。だから、私を救うために死んだ? 死んで私を助けた親孝行な子! 人の流れで賑わう心斎橋も、買物をするお客は少なく、連日のように貸し店舗の張り紙が絶えない。ブランドブームも過ぎ去り、不景気風は一層厳しくなっている。商売を継続していれば間違いなく閉店倒産に追い込まれたであろうことは、同業他社を見れば一目瞭然。小渕政権から森、小泉政権へと移り代わりながら転げ落ちるように中小零細企業は潰れていった。自殺者も年間四万人を越えている。 「お父さんを救うために、代わりに死んだンや」と、誰かが言った。 その通りかもしれない。細り行く売り上げ、マスコミに騒がれ冷えていく人気。バブル崩壊の最終局面。お父さんを助けるため!  息子たちの手をとり昔よく出かけた大阪城。 満開の桜。多くの見物客。 よしゆきが三歳ぐらいのとき、「オシッコ」と言って、いきなりズボンを降ろし、垂れ流した排水溝。一人淋しく歩きながら石垣の上からそろっと覗いた深いお堀、おいでおいでと死神の手招きが私を引っ張る。 『飛び込もう』 ぽちゃん、と釣り糸が投げられた。ハッと我に返り、昔よしゆきと一幸が駆け上った石垣に眼をやると子供たちの姿が浮かび上がる。はぁっと深いため息をつき、そばへ駆け寄る。よしゆきは半ズボンに自慢の帽子をかぶり、とぼとぼと桜の下を歩く。 「お父さんこっちこっち」 「走ったらあぶない、よしゆき転ぶよ」 「お兄ちゃん、あっちまで競争しよう」 「よーいドン」  妻は、買ったばかりのビデオを回して、子供たちの遊ぶ姿に眼を細めている。 「あぶない、よしゆき、ゆっくり走りなさい」 「あっ」  転んだよしゆきが笑っている。 私はよしゆきを抱き上げた。 「痛かった?」 「ううん」  膝の砂を払いながら、よしゆきが耳元に口を近づけた。 「おとうさん四万十河って行ったことある?」  そうだ、四万十河に行こう。  よしゆきに会えるかもしれない。 真夏の八月の太陽が首筋を焼き付ける。倒れてもいい死んでもいい、そんな気持ちで暑い四国路をお遍路姿で歩く。浮腫む足にサロンパスを貼り、歯を食いしばって必死で歩く。この苦しみがこのつらさが、心の痛みをやわらげてくれるのか。切り立った山の頂上。どうして、こんなところにお寺を建てたのか? 細い遍路道をトカゲが横切る。息を切らして必死に登る。大海原の荒波をもろに受ける室戸岬の最先端に立つ。二十四番霊場最御崎寺。鐘をゴーンと打ち鳴らすとその響きが太平洋まで波打っていく。 「よしゆきっ、よしゆきっ」 大声で呼んでみる。私の叫び声は、波間を越え太平洋の彼方まで澄み切った空が運んでくれる。真っ青な空によしゆきの顔がニコリと浮かんでいる。ついてきていたのか、お父さんを守ってくれているのか、ありがとうよしゆき、死んで、あの世に行ってまでもお父さんを守ってくれているのか、見つめる太陽のまぶしさで眼に涙が染む。とめどなくこぼれ出る涙、大声をあげて泣く。泣き声は荒波が拾って海へと消える。何度もなんどもよしゆきの名前を呼び、 『お父さんの代わりに死んだのか』 腹のそこから息子に詫びて、懺悔の合掌。 流れる汗で濃紺の袈裟が白く濁る。 よしゆきの身体中が汗だくで、何度もなんども拭いてやる。下着を取替え必死の看病。同じ汗でも病人の汗、今の私の汗は、健康の汗、喜びの汗、生きている汗、薬で出る汗、注射で出る汗、よしゆきの苦しみ悩み、「早く元気に成りたい」その言葉を思い出すたび、胸が熱くなる。「元気にしてやれなくてごめんね」「お父さんがアホやから」「必ず治してやる、お父さんが治してやる」濡れた瞳で「うん」よしゆきっ〜。 長い土佐の海岸を無心に歩く。桂浜を越え、五台山へ登り、さらに青竜寺から岩本寺へと向かう。地図を見ると足摺岬に建つ三十八番霊場金剛福寺まで、足で九十三、七キロ、車二時間三十分とある。額の汗が出なくなるほど陽射しがきつい。のどが渇き、さっき買ったばかりのペットボトルが底をついた。足のまめが潰れて血がにじむ。足を引きずり乾いた喉に唾が滲みこむ。照り返す国道をバスやトラックが風を切って走り去る。意識がもうろうとして、全身の苦痛が感じなくなってきたその時、見えてきた! 最後の清流四万十河。 河原に降り立ち服を脱ぎ、豊富な水の中へ身を沈めた。 天を仰ぎ、「よしゆきッ、よしゆきっ」 真っ青な空に向かって四万十河の水を放り上げ、「来たで、よしゆき、四万十河でバーベキュー、四万十河でバーベキュウや」そこまで大声を張り上げたとき、張り詰めていた糸が切れたようにボロボロ、ボロボロ、ぐわっーと一気に我慢していたものが噴きだしてきた。 「お父さんの代わりに死んだのか?」 狂ったように暴れ、のた打ち回り、水しぶきを空に向かって撒き散らし、死んだ息子を探すように、 「よしゆき、よしゆき」 喚き、呻き、川面を走り回る。 「バーベキュー、バーベキュー、四万十河でバーベキュー」 よしゆきの顔が笑っている。 雲間によしゆきの顔が浮かんでいる。 ニコッと四万十河で遊ぶお父さんを見て笑っている。 ここに友達を呼び、みんなでわいわいがやがや、バーベキューを食べて遊んで全快祝い。 見上げる空に、よしゆきの笑顔! 「よしゆきッ、よしゆきっー」 そよ風が心地よい。川風が気持ちよい。 風に吹かれて一枚の赤い花びらが舞い降りてきた。顔に止まった花びらを手に取り、しばらく見つめていると、熱い涙がひとつの玉となって花びらの上に落ちた。そっと足元に流してやると私の周りをくるくると周りだす。 「あっ! よしゆき」 花びらに落ちた玉の雫に光があたり、微笑むように輝く。光ったり陰ったり、陰と陽を繰り返して周り、人生の友達と想い出を載せて、最後の清流四万十河を、静かに流れていった。    

                                 

                                    了     原稿用紙百八十六枚  
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